新世界のあたま#329
自分で作ったもの、作ったきたことに自信が湧くときに、俺はまだやっていけそうな気がすると感じるのと同じように、一日が納得できる形で過ごせた場合、その一日は自分で作った作品かのごとく、いやー今日の俺よくがんばった!と振り返りたくなる。
一日をクリエイティブする感覚。というと、ちょっとかっこよすぎて気持ち悪くなるけど、でもそんな感じが日々にあってもいいのかもしれない。
たとえば仕事中に、早く仕事の時間が終わってほしいと思うようなことが暮らしのなかにはたくさんあるけど、同時に今年ももう夏が終わろうとしているなあと、毎年月日の流れの早さに戸惑ってもいる。よく考えてみたら早く時間が経ってほしいと願っていることは、日常生活のなかでたくさんある。望みが叶っていると言ってもいいのに。
毎秒楽しく充実した時間を!というのはちょっと現実離れしているなあと思う。いつどんなときに、自分の過ごした時間が充実したものだったかを査定するのか。たぶん、一日の終わりだ。一日が、時間的な意味で幸福度の尺度を測るための最小単位だ。
新しい iPhone が発売されたら、新機能を使うためそれがほしくなったり、世界でこんなことが起きて今この人たちがたいへな目に遭っているから憐れんだり手を差し延べたほうがいいと思ったり、自分とデカい世の中は連動していると、当たり前のように感じている。自分の意見を持っていると表明するために、たちえば iPhone より Android がいいと言ってみたり、世界のどこかでたいへんな目に遭っているということを陰謀論で埋めようとしたり、デカい世の中にポツンとうたれた点に対して、反対側に自分を置くというやり方をしてしまうことが、俺にはある。
クリエイティブが 0 から 1 を生み出すものだとすれば、自分の一日を振り返ったときに、他者が基準になったものが混在した瞬間、それはもうクリエイティブではなくなる。誰かに教えてもらって、自分もやってみた一日になる。
何でもいい。家のなかの埃が気になっていたから掃除をすることだって、捉え方によってはクリエイティブなんだろうきっと。大切なのは、自分の一日を自分自身納得しているかしかない。評価すること評価されることが、どんなことよりも重要な現代で、その感覚から遠ざかってみたほうが、自分の持ち時間を正しく使い果たした気分になれるような気がする。
今日のMUSICTRICAL
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