【ネタバレ感想】何も“起こさせなかった”サスペンス映画、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

クエンティン・タランティーノ監督作品、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを観た。

この映画、往年のタランティーノらしさに溢れた作品でありながら、いつもとは真逆の結末を迎えたので驚いてしまった。

結論から言えば、“大どんでん返しが起きない”という大どんでん返しが起きたのだ。映画史的な参照を読み説いた丁寧な解説はできないが、この映画を観て自分が考えたことを忘備録として残しておきたいと思う。


サスペンスなのに何も起きない
『ワンス・アポン……』は、鑑賞者の事前知識の有無で全く印象が異なる映画だろう。何も知らない人から観れば60年代末のハリウッドの日常をリアルに描いた、“ほとんど何も起きない”映画なのだが、マンソン・ファミリーやシャロン・テート殺害事件をある程度知っている鑑賞者からすれば、実際に起きた最悪の事件のフラグをギリギリで躱し続ける、 “何も起こさせなかった” サスペンス映画だ。

タランティーノ映画には復讐がテーマになっているものがいくつかある。
デス・プルーフ、キル・ビル、イングロリアス・バスターズ、ジャンゴ・アンチェインドなどがそうである。
中でもイングロリアス・バスターズが凄まじかったのは、映画の中でヒトラー暗殺を成功させてしまったことだ。フィクションとはいえ、歴史をド派手に改変したのである。映画をプロパガンダとして利用していたヒトラーを映画館で倒すという、余りにも無邪気で露骨だが、それでも爽快な復讐劇がイングロリアス・バスターズという映画だった。

日常がひっくり返された実際の事件
だが、これらの復讐劇が悲劇をひっくり返す物語であった一方で、『ワンス・アポン……』がメインテーマとして選んだシャロン・テート殺害事件は少し異質なテーマである。
なぜならこの事件では、悲劇によって日常がひっくり返されてしまったからだ。それも全くデタラメな、八つ当たりの復讐によって。

その史実を知った状態でワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを観ると、ハリウッドの黄金期が終わりを迎えようとしているその裏側で、不穏な出来事が着々と進行していく様子を読み取ることができる。
拘り抜いたリアリティで描かれる当時のハリウッドの映画制作風景は、
あの悲惨な事件さえもリアルに描かれるであろうことを予感させる。

マーゴット・ロビー演じるシャロン・テートの希望と夢と若さに溢れた輝かしい日常も、このあと無惨に破壊されるのかと思うと観ていて悲しくなってくる。

更にブラッド・ピット演じるクリフは一触即発の事態へと突入していく。マンソン・ファミリーがヒッピー風の集団であったと知っていれば、天真爛漫な若いヒッピーの女性すら、悲劇の幕開けを告げる悪魔かもしれないと思えてくるし、旧知の仕事仲間に挨拶をするだけのシーンも、実際にはカルト宗教のアジトのど真ん中へ、何も知らずに歩いていく、という非常に緊迫したシーンであることがわかる。

シャロンとポランスキーの家に前の住人の“友人”が訪ねてくる何でもないシーンも、チャールズ・マンソン本人が下見に来たのだと気付けば、ついに物語がクライマックスに近づいてきたことを予感させる。

日常への再転覆
だが結局、この映画でシャロン・テート殺害事件は起きなかった。
ただでさえ八つ当たり的であったマンソン・ファミリーの実行犯達は、この映画では更に場当たり的にシャロンの隣家へと押し入り、たまたまそこにいたラリったクリフによって、むごい返り討ちに遭う。

そして、ハリウッドで夢をつくっている人達の日常はひっくり返されることなく、2時間40分を完走してしまった。現実に起こった日常の悲劇への転覆が、フィクションの中で日常へと転覆され直すという、今まで見た事がないタイプの“復讐”が『ワンス・アポン……』では果たされていた。数多の死亡フラグを掻い潜り、アドベンチャーゲームで言うところの“全員生還ルート”のエンディングに辿り着いてたのだ。


フィクションの力と現実への無力さ
だが、この『ワンス・アポン……』からイングロリアス・バスターズほどのカタルシスは得られず、非常にモヤっとした気持ちになったことも確かである。というのも、この物語から京アニ放火事件を連想せずにはいられなかったからだ。

あの事件でも同様に、夢をつくる側の人達が理不尽な理由で犠牲になってしまった。シャロン・テート殺害事件は、50年という時を経たからこそ無邪気な“復讐への復讐”として昇華することができたのだと思うが、京アニで働く人々は俺にとって単なる他人ではなく、同時代を生きる尊敬の対象である。

そんな人々の命が失われてしまった京アニ事件に対する心の整理がつかないうちに『ワンス・アポン……』を観てしまったので、どうしてもフィクションによる復讐の薄っぺらさを感じずにはいられなかった。物語の中で復讐しても被害者が救われることは無い、という当たり前の現実と、同様の事件は時代を超えて起きる可能性がある、という事実を強く再確認させられ、なんだかとても悲しくなってしまった。

いやもちろん、悲劇で塗り潰されてしまったシャロン・テートの物語を、夢に生きた魅力的な女優として瑞々しく語り直すことは、これ以上ない慰霊だと思う。芸術表現にできる真摯な対応はそれしかない気もするし、そこに表現の力を感じもするのだけど、同時に現実に対する無力さも感じてしまったのだった。

芸術表現の枠を外して考えるなら、最も重要なのは過去の事例に学んで未来の被害者を少しでも減らすことだろう。被害者への同情と加害者への怒りという単純な構造に落とし込むのではなく、同じような被害を出さないための具体的な対策がおこなわれて欲しい。また同様の事故が起きてしまうようならば、犠牲者も報われないのではないだろうか。

こういった事件を、“不幸な偶然が重なったイレギュラーなケースであり、仕方がなかった、止めようが無かった”といった曖昧な着地で済ませて欲しくない。なぜなら偶然の出来事は原因を潰さない限り、頻度が少ないとしてもまた必ず起きるからである。惑星直列ですら、超長期的な視点からみると定期的に必ず起きる現象なのだ。

この作品を含め、2019夏に感じたあまりにも多くのモヤモヤは、良くも悪くもずっと心に残り続けて行くだろう。

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