毒親からは逃げるが勝ちだがトラウマは逃がしてくれない ①家系の話:母の鬱屈
\ピンポンパンポン/注意:
このシリーズは、毒親に真正面から挑んでやろうと頭のおかしい決断をしてしまった人間のドタバタ悲喜劇です。
人生の大半を地獄化させないためにも、通常は早期に助けを求めて専門機関に相談してください。また親のトラウマが深刻な方は、読むことでフラッシュバックの心配がある場合閲覧は慎重にお願いします。責任は取れません。
専門家でもない、ただの当事者が人生を賭して体感・経験して得た考えです。異論は認める。
なお恨みつらみを書きたいのではなく、あくまで体験をもとに自分なりにどう向き合って変えてきたか:心理的・物理的・医療的・霊性的その他アプローチに繋げてまとめることにトライしたものです。取った手段が正解とは思わないが、誰かの何かの参考になればと思っています。
でも基本は自分のためのアウトプットなのであしからず。
毒親は家系そのもののカルマの煮凝り
📖『不幸にする親―人生を奪われる子ども』
だいぶ昔だが、自分の親の異常さに気づき、自分の人生のどん底っぷりに悩み手に取った本。
冒頭ページに燦然と並んだ65項目、それが毒親の特徴だという。
果たして我が家の親はというと———性的虐待以外の全ての項目が当てはまるという、まるで見本のような毒親だった。
項目ひとつひとつ指折り数えていたが、途中から「あれ、これもしや当てはまらないのを探した方が早いな…?」と、乾いた笑いが止まらなかった。
(ちなみに、この冒頭部分でお腹いっぱいになりすぐ読むのやめてしまったので、この本のレビューを書くわけではない)
毒親は毒を注ぐ先を常に必要とする。
なぜって彼らの中から溢れ出てくる毒も誰かから注がれた毒であり、それを抱え続けて生きるのが難しいからだ。
自分が毒親育ちで毒親からマウンティング依存され続け、なかなか離れることができないまま何十年と生きて、実感して理解したこと。
毒親もまた毒親育ちだということ。その親もまた然り。
つまり毒は杯から杯へ、上から注がれ続けてきた家系の苦しみの物語でもある。
父も血の気が多くわたしも反骨精神の塊だったので、特に十代半ばは親との確執が激化して父にはマジの殴る蹴るを喰らい、わたしも部屋中の家具家電を投げつけるなどして応戦したのでまあひどい有様だった。
あのままだったらいずれ、親刺すとかそういう事件起こしてたに違いない。
もしくは、二十歳まで生きてなかった。間違いなく。
それでもあの頃自殺も親殺しも踏みとどまったのは、ひとえに病床の祖父に最期に会った時、わたしに向けた慈愛の眼が忘れられなかったからだ。
末っ子でじいちゃん子のわたしは、小さい頃から「依怙贔屓だ!」と姉たちに糾弾されるくらい可愛がってくれた同居の父方の祖父に救われた。
祖父の与えてくれた愛情と思い出がなければ、わたしは人として本気で終わってたと思う。
そのためわたしは祖父に対し、好き好き補正がかかってるところがあるのは自覚している。
次姉はわたしと同じく祖父母に懐いていたが、長姉は祖父が大嫌いだったらしい。内孫で長子だからという理由で、かなり厳しく接せられたことも長姉にとっては理不尽極まりなかったようだ。
わたしは祖父が理不尽を強いる場面を見た覚えがなかったから、初めて聞いた時は「え、誰の話してんの笑」と思ったくらいだった。
しかし、長姉の視点から見ると然もありなん。
長姉はわたしより三つ上だから、わたしが物心つかない頃のことも記憶している。
そう、祖父母と父と、母の関係性。
母のプライドを卑屈にし続けた祖父母と父
よくよく考えてみると、祖父母は母に異様に厳しく当たっていた。
祖母もわたしは好きだったが、唯一、母に対する文句を聞かされるのだけは嫌だった。
確かに母はマジ可愛げが1ミリもないタイプだし、プライドの塊だし卑屈だし口を開けば文句しか出てこない上にめちゃくちゃ気が強い。
しかし、プライドのためだけに水呑百姓の家から自力で這い上がり奨学金で国立大に行く程度には、泥臭いまでの根性がある。
だがそれが逆に祖父母と合わない。
特に祖母は体が弱く、それなりに豊かな家庭でおっとり甘やかされた末っ子で、戦時中は相当苦労したとは言え就労経験はないという真逆の育ちと性格だったので、互いに毛嫌いが酷く、さらに母方の祖母とは全く反りが合わなくて生涯冷戦状態が解けることはなかった。
父母の結婚は、当時としてはかなり晩婚の見合いだった。
母は小学校教諭というフルタイムハードワークで3〜4時間睡眠にも関わらず、家族七人分、わたしが生まれる前はまだ自立してなかった父の末弟の分まで、朝からおかず5品くらい並ぶ朝食を毎日作らされ、夜8時過ぎに帰ってきても毎晩4品以上は出すようにしていた。
そうしないと父や祖父にどやされたからだ。
祖母にはそのくらいも作れんのかと、嫌味を言われたからだ。
小さい頃はその品数が当たり前だと思っていたが、だいぶ歳食ってから、あれは異常だったと気づいてしまった。
と言うか、友達に話したら誰も彼もにドン引きされて気付かざるを得なかった。
多分母は何クソの意地だけでそれをやり続けていたと思う。
だから、子どもに対して常時ヒステリーと嫌味と八つ当たりが止まらなかった。
特に祖父に可愛がられていたわたしには。
ところで父は、祖父母からの母への仕打ちを、子どもらに対する母の八つ当たりを止めなかったのか?
———止めるわけがない。
何せ跡取り長男という肩書がたいそうご自慢の俺様男だったので。
何せ、妻と子どもを支配するのが当たり前だと思っているので。
長姉はそんな場面を多く見ていたから余計に、祖父母を嫌ったのだと思う。
逆に——これは生前の叔母(父の姉)から聞いた話だが、祖父はわたしが生まれてから突然孫たち(特にわたし)に激甘ジジイになったらしい。
なので祖父が母をどやしている場面をわたしがほとんど見なかったのも、まあ当然だった。
母も今でいうヤングケアラーで、自分の親に弟妹の世話と家畜の世話をさせられ、苛烈な性格の母親(=わたしから見て祖母)と折り合いが悪かった。
水呑百姓の両親を見下し毛嫌いし、こんな生活まっぴらだとド田舎の底辺商業高校から一念発起して国立大を目指しなんとか合格。
小学校教諭を選んだのは子どもが好きだから、……では当然なく。
男と同じ稼ぎができるから。
子どもは嫌いだが大人社会も嫌い。ならまだ子ども相手の方がマシ。
父とは趣味も性格も全然合わないが、公務員だから決めた。
……という心底身も蓋もない理由だったことを、小学生のわたしは母本人から聞いて、愕然としたことを忘れたことがない。
母の「馬鹿にされたくない」というプライド
父との見合い結婚は母の立場からすれば十分な玉の輿だったはずだ。
曽祖父は町会議員だったし、祖父もかつての電電公社で良き地位にいた。そして父も公務員という、昭和中期の感覚ではもう相当な大当たりの見合い相手だったろう。
後に、こんなにもプライドを踏みにじられるとは思ってもいなかっただろうが。
独立してない父の弟の飯炊きまでさせられ、フルタイムで働いていても飯を完璧にやれとどやされ、舅姑に口答えすれば旦那からネチネチ叱られる。
好きでもない子どもを、「次こそ男」「次こそ男」で三人も産まされ、結果男は生まれなかった。
母がボケてしまってから知ったが、長姉は自分が切迫流産しかけた時、母から、実はもう一人子ができたが生活が大変な時があり、祖父母と父から堕ろせと言われて堕したことがある———と言われたそうだ。
それには流石にわたしも驚いた。
なぜならわたしは中学に入る頃、母に心底恨めしく
「お前なんか産みたくなかった。でも産めってうるさく言われて仕方なく産んだ」
と言われたことがあり当時は本当にショックで、だいぶそれで精神的に荒んだ時期があったからだ。
わたしの上にもう一人姉か兄がいたかもしれないという事実は、五十路近くの心に大いに荒波を立てた。
いたなら、会いたかった。
……と同時に、こんな家に生まれてこなくて本当に良かった、とも。
わたし本人にすらも「三人目も男でガッカリしてあきらめた」とデリカシーなく言ってしまえる父である。
産めと言われたり堕ろせと言われたり、勝手なことばかり決められて翻弄されていた母を責めることはできない。
母本人がボケてしまった今となってはそれがいつのことだったのか、本当のことだったのかすら確かめようもなくなってしまった。
父は都合よく自分のしたことを忘れる男なので、おそらく絶対覚えていない。
わたしにその後できたのは、家系図を調べることだけだった。
家系的に幼いうちにたくさんの子が亡くなっていることが分かったが、
その子は記載されていなかった。
②へ続く