「超美麗3D」の意味するところ
VTuberは生身の身体を仮想の身体(アバター、イラストや3Dモデル)で仮構することで成立する。一般に「超美麗3D」とは、VTuberが現実の生身の身体を仮構することを指す。アバターを操作している生身の人間をライバーと表現するなら、はた目からみるとライバーが現実の姿をさらして配信しているように見える。
この「超美麗3D」という言葉は、単に現象を記述すると、「普段アバターのライバーが現実の身体で活動する事象」となるが、それを成立させる精神性には複数の説明がなされうる。
「VTuberが現実の身体を仮構する」という「超美麗3D」の説明文において、「VTuberが」にアクセントを置いた「超美麗3D」がある。この場合、現実の身体はリアルアバターなどと呼ばれ、リスナーと地続きの現実におけるそれであるという点が強調される。リスナーに「あくまで本体はVTuberとしての身体(アバター)である」という認識を要請する。
また、「現実の身体を」にアクセントを置いた「超美麗3D」がある。この場合、「現実の身体」は究極の仮構としてのアバターとして扱われる。ライバーがライバーであることをもっとも正確に表現できるアバターが「超美麗3D」なのである。イラストや3Dモデルのアバターはライバーを表現するものの一形態という位置づけになる。リスナーに「本体は現実の『ライバー』である」という認識を要請する。
現実には、ライバーの認識は、前者と後者を両極においてその間のどこかに位置する。どちらが優位かはさまざまな要因により流動的で、時間性をもって変わるだろう。「超美麗3D」をめぐる議論の原因は、おそらくこの認識が違うことに起因する。
前者(本体はVTuberとしての身体という立場)優位のライバーにとっては、VTuberという仮構された身体に現実の身体を重ね合わせることではじめて、最初から生身であらわれることからの特異性を得る。ある概念から別の概念への移行のダイナミズムに面白さ・エンターテイメント性を見出すなら、狭義のVTuberへの対抗概念としての「超美麗3D」は、最初の1回でその役割を終える。それ以降の「超美麗3D」の意味するところは、おそらくその人がその人であることだけになる。もちろん、それは立派な価値(配信を見る理由)なのだが、「超美麗3D」にエンターテイメント性はなくなる。より正確には、超美麗3Dであること自体が面白いという理屈は成り立たなくなる。後者(本体はライバーとしての身体という立場)優位のライバーにとっては、超美麗3D(現実の身体)であること自体に特異性(エンターテイメント性)はなく、超美麗3Dで何をするかが特異性にかかわる。これも同様に両者は極であり、現実的にはその間でグラデーションになっている。
「超美麗3D」をするということは、ライバーの認識が前者であれ後者であれ、リスナーに認識の変化を要請する。そして、ライバーはリスナーがその要請を受け入れるものと信じている(裏を返せば、信じているからこそ「超美麗3D」をやる)。アバターが異なることに直面したリスナーは、それに対して認知的に整合性をとろうとする。整合性をとることができたリスナーは配信をたのしみ、できなかったリスナーはたのしめず、ことによると負の感情をもつことになるだろう。VTuberを鑑賞すること自体、現実でない(二次元の)ものを、現実を拡張したものとして取り扱うことなので、超美麗3D(が内包する要請)を受け入れるということは、ふたたび現実を拡張する(認識を更新する)ことになる。この拡張の仕方がリスナーの性質を決定する。「超美麗3D」をすることで総体としてのリスナーの性質が変わる。
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