「VTuber」の限界について

その人がその人であること

以前 VTuber の「超美麗3D」について書いた。現実の「ライバー」としての「超美麗3D」におけるエンターテイメント(以降エンタメと省略する)性を説明する文で、「その人がその人であること」という言葉をつかった。

非常に乱暴な言い方をすると、その人がその人であることはエンタメではない。なぜなら、ある概念から別の概念への移行がないからである。その人が何をやったとしても、すべてその人ならやりそう/やるだろうという想像の範囲内におさまる。誰かがすでにやったことをやったライバーを見て面白いと思うならば、そのなかに含まれる新しい概念の提示を完全に取り除けば(取り除くことができれば)、その人がその人であること自体に価値(面白さ)を見出していることになる。例えば、その人の声が好きだから、見た目が好きだから、考え方が好きだから、あるいはその全部が好きだから。裏を返せば、その人がその人である以上、必ずその人を好きな人がいる。

「VTuber」の限界

「エンタメは新しいファンを獲得しつづけなければいけない(≒ 閉じコンになったら終わり)」という一般的な説を採用して視聴者数を増やそうとするなら、その VTuber が提供するコンテンツは最大公約数的なものになるだろう。この「最大公約数的な」は「世の中の大部分の人に共通する概念と思われる」と言い換えられる。例えば、金銭、人間関係インターネット、一昔前なら国家など、いわゆる大きなものになる。この概念は流動的であるから、その変化を捉えることがコンテンツ提供者に求められることになる。トレンドとしての「VTuber」は、その変化(活動に生身の身体をつかうことから、仮想の身体をつかうこと)にあたる。
ここに、コンテンツ提供者としての「VTuber」 の限界がある。これは生身の人間がコンテンツ提供者として今までやってきた/やっていることと全く同じなのだ。もちろん、そんなことは言われなくても分かっているという意見もあるだろうが、 これを示すことでしたいのは、「生身のタレントは時代遅れ、これからは VTuber の時代だ、生身はいずれ駆逐されるだろう。」といった言説を明確に否定することであり、このようなはっきりした意見でないにしても、ぼんやりとでも生身とはなにか違うと思っているのはなぜですかと問うことなのだ。VTuber に新たなエンタメの可能性を見出していた人たちは、現在のような演者のタレント(=その人がその人であること)性に重心があるトレンドに背を向けているかもしれない。しかし、これは商業的なものと結びついてしまったことに起因する不可避の結果である。その道筋をたどりはじめたその時点でトレンドとしての VTuber はオワコンになったのかもしれない。

限界をこえるもの

VTuber の限界は人間の限界と同致する。VTuber という現象が一人の人間に結実する以上、想像力には限界がある。ここでいう想像力は、演者や演者を取り巻く運営サイド(=コンテンツ提供者)の想像力ではなく、それを受け取る側(=コンテンツ享受者)の想像力のことである。コンテンツ提供者がいくら新規性を盛り込んでも、コンテンツ享受者が VTuber を一人の人間として見てしまう以上、エンタメ性には限界がある。この「一人の人間に結実することによる限界」を取り払うことに成功した一例が、初音ミクに代表されるボーカロイドやボイスロイドであり、成功する可能性があるものの一例が AITuber (ライバーを AI に置き換えた VTuber、AIVTuber とも)である。ただし AITuber を人として、中に人がいる VTuber を代替するものとしてあつかうと、同じ道を辿ることになるだろう。そして、その道を辿ることは、あらゆるものが商業的なものに取り込まれざるを得ない現代の資本主義的な世界においては不可避であるとおもう。

限界など存在しない?

ここまで文章を読むと、「いやそれは間違っている。例えば、〇〇 の 〇〇は立派な新しいエンタメだ」という否定の意見も思い浮かぶとおもう。それらの批判は、すべて「ある概念から別の概念への移行をエンタメとしている部分」に集約されるとおもう。これに対する回答は、「この概念という言葉には概念の概念という概念も含まれていることを了解してほしい」である。
例えばこんな話がある。「ある民族が行う雨乞いの儀式は必ず成功する。なぜなら雨が降るまで続けるからだ。」
この話に意味があるようにおもうのは(おもってほしい)、同じことをやり続けることが価値をもつことを了解するからだ。〇〇 系 VTuber といったテーマを決めてそれを続ける VTuber に 一定の支持があるのは、同じことをやり続けることに価値がある(=同じ概念を提示しつづけることがあらたな概念になる)からだ。概念の概念という概念の存在を了解すると、「ある概念から別の概念への移行」は、文字通り無数に存在することになる。エンタメの可能性は実のところ無限なのだ。

限界が存在する理由と面白さについて

では、なぜ限界という言葉をつかったのか。上の文章でつかっている「限界」には、正確には頭に「商業的に」がつく。限界という言葉が出てくるのは、この言葉を入れるからだ。これが入るのは現実的には不可避で、程度の問題となる。「エンタメは新しいファンを獲得できなければ終わり」も商業的な要請からくるものだ。VTuber に限らずあらゆるコンテンツは、商業的な性格が強くなるほど(=最大公約数的なものを見据えるほど)、その「限界」が表層に浮き上がってくる。あらゆるクリエイターはその境で葛藤している。私はそこに面白さを、面白さをも超えた美しさをみる。


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