「なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れなくなってしまうのか」を検討する

はじめに

この文章では『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」に掲載されている論考『なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れなくなってしまうのか』について、非アカデミックな立場から批評的な視点で検討を行う。

ヒグチ:なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れられなくなってしまうのか ~IEB概念の提示による三層理論のアップデート~

かつて難波優輝氏によって提唱された「三層理論」をもとにしながら、新たにVTuberの「内面」に焦点を当て、演者とキャラクターが交換不可能性を獲得していくプロセスを解説していく論考。「シャドウ」や「IEB」など、これまで設定されてこなかった論点を打ち出し、既存の理論では説明出来ないVTuberについても考えられており、必読の文章です。

青春ヘラver.7「VTuber新時代」内容紹介

IEBという新しい概念を提示してVTuberの「親しみやすさ」に説明を与えたことに新規性があるとおもった。しかし、現象の捉え方自体は妥当であると思えるものの、先行研究(難波,2018)で提示された「三層理論」に無理矢理引きつけているように見え、それゆえ無理のある立論になっているように感じる。

というわけで、この記事では次の2つの観点で検討する。

  • 立論について。既になされた別の研究者による指摘を参照しつつ、それを克服するための方向性を提示する。

  • VTuberの「親しみやすさ」をメリットとするなら、デメリットは何か考えてみる。

論考の概要

なぜVTuberの身体は活動を通じて、ただひとつの「魂」と離れられなくなってしまうのか」という問いから論を始めている。
この問いは文中で、
「なぜVTuberは親しみやすく感じられるのか」
「なぜVTuberの魂(演者)は、ある時点から入れ替え不可能になるのか」
と言い換えられている。

論の中心となるVTuberは、現シーンの中心にいる「一般的なVTuber」である。つまりライブ配信を中心とするタレント性の強い二大事務所所属的なVTuberのこと。

一つ目の問い「なぜVTuberは親しみやすく感じられるのか」については以下のように説明される。

VTuberという奇妙な存在の親しみやすさは、当人たちが自身のキャラクターをリアルタイムに長時間演じ、その中で自分自身を「演じそこねる」ことで、VTuber当人と視聴者とがVTuberの「内面」を協働的・共犯的に発見していくことによって発生する。

青春ヘラver.7「VTuber新時代」  p.74

いわゆる「ヤンキーがいいことすると、実際以上にいいやつに見える」現象に近いものではないかとおもう。ヤンキーという「反社会的な」存在が、いいこと、すなわち「ヤンキーがしそうにないこと」をすると、ヤンキーの「内面」が明らかになり、さらにその「内面」が好ましいものであるから、実際以上にいいやつに見えるわけである。

そして二つ目の問い「なぜVTuberの魂(演者)は、ある時点から入れ替え不可能になるのか」については以下のように説明される。

VTuberにおいて「内面」は、中の人がキャラを「演じそこなっ」たときに表れる。VTuberは、この「演じそこない」を「その人がまさにその人であることを証明(アイデンティファイ)するようなエピソード」として選択的に取りこむで自らのイメージを不可逆に更改していく。
そのようなエピソードの集まりをIEB(Identifiable Episode Bundle)と呼ぶことにする。このIEBがキャラクターとシャドウ(演者=魂=中の人)を強く接着・癒着させてしまうことで、キャラクターと魂が不可分になる、としている。

これらを難波の「三層理論」に引きつけて、「IEB滲出(にじみ出ること)を伴う三層理論」と呼んでいる。その構造と説明を引用する。

青春ヘラver.7「VTuber新時代」 p.80 より引用

1.キャラ図像……キャラを示す顔や体、服、アクセサリー、小道具。キャラの背景に表示される部屋。キャラの図像表現
2.キャラ属性……キャラの性格やモチーフなどを説明する。プロフィール内容。キャラのテキスト表現。キャラ図像と併せて、オブジェクト層をなす
3.シャドウ(演者)……「キャラ図像」と同期し、声を吹き込み、図像を操る主体。「演じ」の強制により、抑圧されている。シャドウ層をなす

青春ヘラver.7「VTuber新時代」 p.80

「キャラ表現」は「キャラの言動・振る舞い」「動画・配信・SNS活動・PRなど」と説明される。また、「キャラ図像・キャラ属性・キャラ表現の総体を「キャラクターイメージ」(視聴者から見えている、キャラの見た目と振る舞いとイメージの総体。キャラクター像)と呼ぶことにする。」[*1]

文中の例で具体的に言うと、「委員長キャラがムカデ人間というB級悪趣味映画を見ていた」みたいなエピソードを見聞きしたとき、我々は対象に「内面」を発見する。たしかにこの手のエピソード(IEB)はリスナーに親近感を与え、「これが委員長なんだよなぁ」みたいな委員長の委員長感を醸成する。
これは「キャラ図像・キャラ属性」とかけ離れた「キャラ表現」、オブジェクト層(1層目)とペルソナ層(2層目)のギャップ(「デカルト内面」と呼ばれる)として表れる。

また、「配信中に家族からいきなり呼ばれる」といった配信事故や無意識のアクションは、「キャラクターイメージ」と「シャドウ(演者)」のギャップ(「フロイト内面」と呼ばれる)として表れ、これもリスナーに親近感を与えるとする。

論考では上記2つの「内面」と、それらによるIEBを積極的に引き起こすのが現在主流の「一般的なVTuber」だとしている。

論考への指摘とその克服

「内面」の発露がIEBを生み、IEBがリスナーに親しみを与えるという結論に異議はない。それを積極的・意図的に行うVTuberが主流なのも実際その通りだとおもう。しかし、それを説明するための理論立てにいくつか疑問がある。

泉信行氏による指摘

既に漫画研究者の泉信行氏が、同論考に対し漫画研究者/VTuber研究者としての専門的な視点で検討を行っているので、まずそちらを参照する。

詳細は本文を読んでいただくとして、泉氏の指摘は大きく以下の通り。

  1. キャラ図像の「イメージ」とは誰が決めるものなのか? への解答がないこと。

  2. 「キャラ図像から読み込まれるイメージ」と「プロフィール」を同じ「キャラ属性」で括ること自体に無理があること。

  3. 「キャラ属性」は本来、静的で固定された情報ではないという視点が欠けていること。

  4. 「キャラ属性」に加えて「キャラ表現」という情報を付け加えるが、「キャラ属性」の主観性のため、両者の区別があいまいになってしまっていること。

この指摘は、ヒグチ氏の論考のみならず、参照元の難波「三層理論」にも共通する指摘である。なぜこのような問題が出るのだろうか。

わたしの考えを端的に述べると「それはVTuberを実存(実際に存在するもの)として捉えているから」である。以下では、泉氏の指摘を克服すべく、VTuberを「シャドウ(演者)」と「リスナー(視聴者)」の関係の結節点として捉えてみたいとおもう。わたしの解釈を交えつつモデルを読み替えていく。

「三層理論」及び「IEB滲出を伴う三層理論」の読み替えモデル

まず「キャラ図像」「キャラ属性」「キャラ表現」「シャドウ(演者)」をモデルの中で同じ水準で扱われていることを指摘したい。
オブジェクト(客体、ざっくり言って「モノ」)と、「シャドウ(演者)」(主体、ざっくり言って「人間」)の行為と観念が同水準で扱われている状況を確認しよう。

「キャラ図像」自体はオブジェクト(客体)であり「キャラのイメージ」を構成する要素であるが、そこから読み込まれる「キャラのイメージ」は、オタク的データベース[*2]に基づいて読み込まれる動的な観念である。

「キャラ属性」も、「お堅いクラス委員長」の「クラス委員長」は「プロフィール」として「キャラのイメージ」を構成するオブジェクトであるが、「お堅いクラス委員長」の「お堅い」の部分は「キャラのイメージ」である(ただし、「クラス委員長」という文言自体は「プロフィール」でも、その言葉を見聞きした瞬間連想されるものは、まごうことなき「キャラのイメージ」である)。

「キャラ表現」は「キャラのイメージ」に基づいて「シャドウ(演者)」によって行われる一連の行為であり、それらの行為の結果は「キャラのイメージ」に回収される。一連の行為が「キャラのイメージ」を構成・更新する要素となる。
「シャドウ(演者)」は「キャラのイメージ」を構成する要素ではなく、「シャドウ(演者)」が行う「キャラ表現」がVTuberを構成する要素であるとする。

ここまでをまとめると以下のように描ける。

「IEB滲出を伴う三層理論」の読み替えモデル

破線で囲まれた部分が「キャラのイメージ」となる。
中心となるイメージがあり(<VTuber>)、それは「キャラ図像」と「プロフィール」を、各主体がオタク的データベースに基づいて解釈した結果の総体である。シャドウ(演者)は、シャドウ(演者)が持つ「キャラのイメージ」(2つめの破線)に基づいて「キャラ表現」を行い、それがまた「キャラのイメージ」を更新する(3つ目の破線)。活動が続くにつれて一番外側の破線を包み込む形で「キャラのイメージ」は更新される。
このようにすれば、指摘2.、3.、4.の解決に近づくのではないか。指摘1.はモデルには直接表現していないが、<VTuber>が各主体の解釈の総体であることから、言外に含まれるとしておこう。

読み替えモデルによるIEBの説明

IEBとは「その人がまさにその人であることを証明(アイデンティファイ)するようなエピソードの集まり」であった。それは「内面」が発露するときに表れ、「内面」は中の人がキャラを「演じそこなっ」たときに表れるのだった。
読み替えモデルで言うと、シャドウ(演者)の「キャラのイメージ(破線すべて)」と、リスナーの「キャラのイメージ(破線すべて)」が異なるときが「演じそこない」と言える。
論考と同じく、「キャラのイメージ」を構成する要素間の矛盾を考えてみよう。

1.キャラ図像 VS プロフィール
論考でも取り上げられている「お嬢様にあこがれる一般人」が該当する。アニメ・漫画でお馴染みのギャップ萌え(古い?)に相当する。

2.キャラ図像 VS キャラ表現
これは論考で言うところの「メガネキャラではないのに3D配信でメガネを押さえる動作をする[*3]」に相当するだろう。論考では「キャラクターイメージ」と「シャドウ(演者)」の矛盾としていたが、それは「キャラクターイメージ」と「キャラ表現」の矛盾の原因を「シャドウ(演者)」にもとめた(演者がメガネをかけているからだ)という原因と解釈を一体と考えるためではないか。

3.プロフィール VS キャラ表現
これは泉氏の記事にある「「16歳のJK」らしからぬ」キャラ表現となるだろう。矛盾の原因はシャドウ(演者)にもとめられるのではないか。
(極端なことを言えば16歳のJK(という設定)からおじさんの声がしたとき、それは演者がおじさんだからだ、という解釈になるとおもわれる。)

さて、シャドウ(演者)との矛盾は?と思われるかもしれないが、わたしはシャドウ(演者)の存在自体は、VTuberという存在、あるいはあらゆるキャラ表現自体に最初から内包されていると考える。そしてそれは、「演じそこない」、すなわち「キャラのイメージ」を構成する要素間の矛盾をリスナーの中で解消するときに意識の表層に表れるのではないだろうか。つまり「演じそこない」の矛盾の(直接の)原因にはならないのではないか[*4]。

VTuberを関係として扱うこと

読み替えモデルを提示して、IEBを説明してみた。
「キャラ属性」と「キャラ表現」の主観性の問題を排除できたのではないだろうか。

ちなみに、実はこのようなモデルを既に過去の記事で提示していた。

VTuberとリスナーの関係

VTuberとリスナーの関係に着目して三者の関係をモデル化してみたが、これも読み替えモデルと同じ発想でつくられている。すなわち、VTuberを関係として捉えている。
「VTuberとはどのような存在か」みたいな問いから始めると、どうしても実存的に捉えがちになってしまうが、「どのようなものがVTuberと言えるか」みたいな逆の発想でも得られるものはあるのではないかとおもう。

IEBによる「親しみやすさ」の負の側面

IEBによって「親しみ」が生まれることがVTuberにとってのメリットだと考えると、逆にデメリットはあるだろうか。
ひとつ、「シャドウ(演者)を過度にキャラとして捉えてしまうこと」があると考える。

論考によると、VTuberにおける「内面」とは、

  • 二次元的な姿(キャラ図像)、二次元的な人格(キャラ属性)、二次元的な姿で行われる行為(キャラ表現)のいずれか2つが互いに矛盾するようなものであったとき

  • キャラクターイメージからシャドウ(演者)が透けて見えるようなとき

観測者(リスナー)によって見出されるものであった。
その矛盾は「キャラクターイメージ」に回収されることで解消され、矛盾の解消に伴って「キャラクター」への「親しみ」と、キャラクターとシャドウ(演者)の固着という、うれしい(?)副次効果が生まれる。

このとき、矛盾がシャドウ(演者)に回収されないことに注目する。
それはつまり、観測者がVTuberを、アニメや漫画のような二次元・虚構ベースで認識しているということである。
観測者(リスナー)は、それまでのキャラクターイメージと矛盾するキャラ表現を目撃したとき、その矛盾を二次元的な、キャラ的なものとして処理する。それも過度に。例を挙げよう。

某大手事務所でリスナーに母親面されることに苦言を呈してて引退したVTuberがいる。これは、そういった属性を想起させるキャラ図像が強すぎて、シャドウ(演者)がそれと矛盾するキャラ表現をしたとしても、キャラ図像から想起されるキャラクターイメージに、シャドウ(演者)が回収されてしまったと考えられないだろうか。
あるいは、他のVTuberとの絡みでの「キャラ」が強すぎて、それに反発するようなシャドウ(演者)が発露しても、「親しみ」を伴って「キャラクターイメージ」に回収されてしまったと考えられないだろうか。

あるいは、(例は挙げないが)VTuberとリスナーのプロレスを考えてみてもいい。プロレスという言葉のとおり、お互いがお互いの役割を演じるショーであれば何の問題もないが、役割をシャドウ(演者)に強制するならそれは問題である。そういった場面を目撃したことはないだろうか。

ここで言いたいのは、IEBによる「親しみやすさ」は、その二次元図像から想起される「キャラ」に裏打ちされたもので、シャドウ(演者)をキャラ化することで強化されるものなのではないかということである。

芸能人しかりアイドルしかりYouTuberしかり、人前に出る人間というのは、少なからず自身をキャラ化、つまり、人間性の一部分を誇張、あるいはカリカチュアライズして、人目を引こうとするものであるが、VTuberにおいては、目に見える姿がアニメ・漫画的二次元であるために、キャラ化が過度なものになる傾向があるのではないだろうか。そしてそれが「親しみやすさ」に覆い隠されてはいないだろうか[*5]

おわりに

「IEB滲出を伴う三層理論」を検討して、「三層理論」の弱点を克服する方向性を示し、IEBによる「親しみやすさ」の負の側面を指摘した。
研究の体はなしていないものの、これまでの研究にはない視点を提示できたのではないかとおもう。

IEBという概念の発見によって、VTuberの「親しみやすさ」に一定の理解が得られたとおもう。そうすると、「なぜそれ(矛盾の解消)が親しみを伴うのか」といったもう一段抽象化した問いが出てくる。それには、おそらくアニメ・漫画論や、コミュニケーションの文脈が役に立つだろう。


[*1]:青春ヘラver.7「VTuber新時代」 p.80
[*2]:「データベース」の語は東浩紀氏の「データベース消費」に由来する。同論考内の脚注でも参照される概念であり、泉氏の指摘の中にも表れる概念である。簡単に言えば、アニメキャラの図像やプロフィールとそのキャラの印象を結びつける前提みたいなもの。
[*3]:青春ヘラver.7「VTuber新時代」 p.87
[*4]:ただし、ひとつだけ「演じそこない」ではない、矛盾の原因そのものにシャドウ(演者)が含まれる場合があるとおもう。「VTuberが意図的に自己言及するとき」がそうだ。オーディオコメンタリーのようにVTuberの姿で、VTuberを他人のように扱う発言をしたとき、キャラ図像・プロフィール・キャラ表現のどの2項も矛盾せず、演者とリスナーの「キャラクターイメージ」で矛盾が生じる。このようなメタ的な発言は不可避に演者に直接原因を求めさせるだろう。
[*5]:もちろん他の影響もあるとおもう。単にコンテンツ消費のスピードが速い分、それぞれにかける時間が少ないために過度にキャラ化して消費するのかもしれないし、大きく言えば、若年層のコミュニケーションにおける「キャラ化」の問題[*6]や、各々のバックグラウンドが多様化した現代社会のポストモダン的状況が遠因かもしれない。しかし、いずれにせよ「二次元にする捉え方を三次元に適用してしまう」ということはVTuberに特有な現象と言えるのではないかとおもう。
[*6]:土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』


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