男(men)型、コッテリ
(Eさんへのメールを元にした備忘録)
お世話になっております。
松本です。
通っていた演劇の学校みたいなところで教わった数少ない良心的なものの中に「型」の大切さ、みたいなものがあったぞ、ということをふと思い出したので、書いてみようと思った次第です。
僕が通っていたのは一応現代劇が主な所だったので、歌舞伎や能・狂言・文楽などのそれには及ばないものの、まあそれは型だったです。
稽古では、俳優の内面はひとまず問わず、まずは全部音でジャッジする。
「音」というと単純そうに聞こえるものの、(その実結構広範な概念を含んでいたりしてあまりに抽象的すぎるのですが、)要は口跡のことで、とりあえず一音たがわず台詞を発語できるようになるのがまず最低限、そのための稽古、みたいなことでした。
(そのために自分が稽古場で喋った台詞、それに対する演出家の指摘をテレコや携帯で録音したりします。)
「音が違う」とか「音を変えなさい」というのはたぶん一部の演劇界隈で通じる符牒みたいなもので、まあ、俳優も演出も困ったら音を変えておけば間違いはないと思われている節もあると思います。
演出家の鵜山仁さんに「音ってなんですか?」と聞いたこともありました。
台詞を発語できるようになったのちに、動きや身振り、ミザンスみたいなものをおぼろげになぞっていくのですが、作品によっては過去の巨大な名優/名女優達が生み出した型がたしかにあって、たとえば「この台詞のここでこう机に手をついて、その後の台詞でこう首を上げると決まる」みたいなのが脈々と受け継がれていたりします。
受け継がれている、というか、演出される方(愛すべきおじいちゃんです)が若い時分に嫌と言うほど稽古場や劇場で観てきて、折に触れて自分も演じたりして、もうすっかり血肉となって体に染みついてるのだと思うけれど、たしかに言われたとおりにやってみれば、演劇を初めて数か月のずぶの素人でも、きちんとそれらしく見えてくるようになります。
「ただ型通り喋ってやってるだけじゃねえか」と思われる向きもあるかもしれませんし、実際自分の同期にも「これでは俳優に自由がない」「俺のセンスが光らない」「やりたいようにやれない」みたいな憤懣を抱え、なんならすこしの憎しみを抱えて、後に別の養成所の門を叩くことになる人もいたりしました。
言われた通り、或いは型通りにやる、というのが、簡単そうに聞こえて実はむちゃくちゃ難しいのだということがけっこう新鮮な驚きだったりもしました。
コーディネーション能力というか、舞台に立ち、主観でなく他者からのジャッジで成立する演技というのは確かに専門職です。
そうしたやり方にはまる奴とはまらない奴がそりゃいるのですが、ある種類の戯曲(というか言葉)ではその型、その口跡を正確に辿ることで自ずと内面も伴ってくる、みたいな事が起こるぞ、という肌感覚が個人的にはありました。
内面というと少し危ういが、要は戯曲に書かれた言葉の意味が分かってくる、というか、理解が深まるというか、とにもかくにもそんなことで、「型ってのは流麗な文体、堅固な様式を持つ言葉に限られた時間で相対するときの一つの方策なのだな」と自分なりに理解していました。
思うに、だいたい型が受け継がれているような大振りな作品(一応歴史的な名作という事になってたりする)で、若くて才能も芸もない有象無象がこちゃこちゃ考えて思い付きや情熱みたいなものでどうこうしてみたとて、まあどうにもならないのだが、「型」に入る、かつてその言葉と格闘した巨人たちが編み出した身体性みたいなものを受け継ぐ、ということになると、いくらかましになる。
上演としても、結局観客にきちんと戯曲の言葉が受け渡せるようになる。一つ一つの言葉の意味が分かるようになり、それは劇作家の思索の後を辿りやすくさせ、全体として作品の質と解像度も上がる。その型に入ることで、結局最短距離で天井を目指せるのだなというようなことをぼんやり考えたりしていました。
(そうした次第で、今でもなお俳優の内面とか言うよりは「書かれた言葉がどう発語されるか」「それが現にどう見えるか」の方にかなり強い興味があります。)
(「(俳優が)書かれたことばをどう喋るか、にしか興味がない」と、年下の優秀な(それでけっこう尖り散らかした、けっこう異なる界隈の)演出家が口にしたのを聞いて思いがけず「おおう」と思ったこともありました。)
もちろんそこで全部が全部そうした作品を扱っていた訳ではなかったし、一口に「演技・演出」ったって現代劇に別に決まった方法があるわけでなし、人によっては全然尊敬できない様々な不条理や「ほんとクソだな」という不合理も目の当たりにしたけれど、それはまた別の話です。
そうした個人的な体験のほかに、演劇で「型」ということを考えるときにはやはりどうしても歌舞伎のことを考えます。
渡辺保さんが歌舞伎の究極の面白さは『型』にあるといい、
「型とは何か。(…)型とは破るためにあるのではないか。破って、超えて、そして自由になる。このための方法論が型であり、型を正確に、己を空しくして、くり返しやることがそのために必要なのである。破ることができるほど繰り返す。(…)そして型を超えたときに自由になる。そこに現れた自由こそ芸術家の真の意味の自由である。」
ということをおっしゃってたりする。
(渡辺保『歌舞伎 型の魅力』角川書店より)
「型に入って型を出る」という言葉を先代の中村勘三郎さんがどこかで書いていらしたり、先日市川猿之助さんも同じような話をTVでもされていたようです。
空手や武道にも「守破離(型を守り、型を破り、型から離れる)」という言葉があったりしますが、確かにこないだまで放送されていた『半沢直樹』の第二期で、まあ全体的に演技が過剰だったとはいえ、歌舞伎役者の方々の演技が特に濃く強烈だったのにはそうした素地も関係しているのかなと、思ったりもしました。
俳優として自分の中に「型」というひとつの演技の規範を持っている人ほど、そこから距離を取ったり逸脱したりしやすいのだろう(たぶん)と。
あのドラマの演技体、演出が果たして芸としてどうかということは暫く問わず、なにしろ強烈な印象を残す、演技の腰のつよさみたいなものは確かにあるんだろうなと思います。
ああいう過剰な感じ、苦手な方もそれなりにいらっしゃるようですが、悲しいかな、自分(と自分の団体)が「演じる」ということで活路を見つけるとしたら、たぶんああいう方向性なのだろうな、と観念しています。
(だので最近は先のストレンジシードや、野外でのパフォーマンスの機会をいろいろ求めて探し回っています。)
とはいえ伝統もなく、なにかきちんとした型があるわけではありませんが、自分なりにいろいろ勉強しつつ、書かれた言葉をどう読みどう発語するのかという俳優としての基礎、ファンダメンタルみたいなものは大事にしていたいな、と思った次第です。
愛之助や猿之助、香川照之らのあれを、そこらへんの俳優が上っ面だけなぞろうとすると、きっとややこしいことになる。
でもまあ真似るは学ぶと言う側面もある。
目下小劇場界隈はぜんぜん元に戻ってはいませんが、『半沢直樹』に影響された若い俳優の底の浅い「とりあえず過剰にキャラクターつけて叫んどけ」みたいな発散系のワーキャーした感じ、それもできるだけ安直に真似しちゃった感じのやつを、どこかあんまりメジャーじゃない小劇場とかで観たら、でもニヤニヤしちゃうんだろうなあ、などと思いました。
(2020/10/05)
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