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「私見」という表現で反対意見を排除するマスコミ

東京都知事選挙開票直後の石丸氏への質問や、それに対する石丸構文が話題となり、連日ネットニュースになっている。

マスコミ批判もあったことから、一時「石丸叩き」ともとれるようなマスコミ一斉の石丸批判記事が出ていた。その後は擁護する記事もあったが、全体的には石丸氏への人間性への批判記事が多い印象を受ける。

当の本人は話題になった知名度が上がることはありがたいので、スタイルを変えずドンドンやっていくだらう。しかし、市長時代とは違い、国民全員の目にさらされるようになると、やはり人を見下す人間性を強く指摘する記事が並んでいるように見える。

今回のタイトルは石丸氏のことではなく、石丸氏を敵対視しつつあるマスコミのことだ。

この中で中瀬氏の発言を「私見」と注釈をつけてタイトルを終えている。

「私見」とは何か。一般的には個人的な見解、自分ひとりの意見、とある。

しかし、誰がそれを個人的な意見と決めるのか。マスコミが書く記事はすべて世論なのか。概ねマスコミは、マスコミの主張と異なることを報ずる時に「私見」とつけることが多々ある。もっと言えば、マスコミに反対の意見、マスコミを攻撃する意見をついては「私見」とつけて相手を排除し見下す傾向が強い。

何度も言うが、世の中の全ての意見は主観である。絶対的な客観は存在しない。時代の流れの中で、当然にしてその時代に逆行し、あるいはそれを批判する意見を言う人もいる。その人を排除するために「私見」とつけるのだ。

これは全体主義を誘導する何物でもない。世の中に絶対はないのだ。だからこそマスコミはいろんな意見を尊重しなければならない。国や政治家に媚を売って叩かれないような八方美人記事しか書かないようなマスコミはいらない。

日本には真のジャーナリズムは存在しない。敢えて言えば、週刊文春と日刊ゲンダイくらいなものだ。今の日本の現状を直視して批判記事を書けない、後ろ指を刺されないために八方美人記事しか書かない弱虫メディアの責任は重い。

だから「マスゴミ」なのだ。



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