掌篇小説|ミルクとハニー
ハンドクリームは蜜の香露寒し
紫乃/shino
レジ締めを終えて、未対は深い溜め息をついた。あとは総務に売上金を届ければ、今夜の仕事はおしまいになる。それにしても、クリスマス・イヴの喧騒状態で、ミスもなく精算があうのは予想外で、こんな処でクリスマスの奇跡を使ってしまったのだろうかと、知らぬ間に頭を霞ませた。
「こちらの片づけと、包材の補充も終わりました」とアルバイトの女子学生に声をかけられて、未対は我にかえった。レジを間違えなかった彼女たちの優秀さを大げさなくらい誉め、明日の予定を短く確認したあと、皆を先に帰らせる。
百貨店の地階のショコラトリー、転職をしてここに勤めだしてから、初めて迎えたクリスマス・イヴだった。奮発して高額なケーキを予約したのに、一緒に食べるはずの恋人は、三週間前に出て行ってしまった。
「ストッキングが伝線している」
その男は、床にくずおれて泣きじゃくる未対を見下ろしながら、感情のこもらない口調でつぶやいた。彼の幼い横暴で云い争うのはいつものことだったが、なすべきことはむしろ、彼と別れることだと、認めるしかない状況に陥っていた。もう帰って来てくれなくてかまわない、と云った未対の声は涙によじれて、彼には聞き取れなかったかもしれない。部屋のドアを開ける前に、僅かに振り向いた男の白眼が、冷たく光っていたのを覚えている。
一人きりの部屋に帰るのは耐えられないけれど、誰かに会って平静を取り繕うのも辛い。どちらにせよ、いつまでもここに居残るわけにはいかない。
「よし、動こう」
彼女は独りごちて、包装台に置いた荷物とケーキの箱に手を伸ばした。
* * * *
外に出ると、冷たい風が痛いようだった。イルミネーションのせいか、夜の空はさらに黒く、浮き足立った通りの空気とは裏腹に、ブラックホールという言葉を連想させた。行き交うひとは皆、満ちたりているように見える。二人ゆえの孤独に苛まれていたはずなのに、寄り添うカップルを眼にするたび、自分はこれから先、ずっと一人で過ごすのだろうと、悲しくなった。
行きつけのビストロに入ると、暖かさにほっとするようだった。山小屋のような店内は満席らしく、どのテーブルも和やかに賑わっている。
未対はカウンターから女主人に挨拶し、恋人と食べ損なったことは内緒にして、ケーキを渡した。
「やっぱり、イヴだからいっぱいね。ちょと外で時間をつぶして来るわ」
未対がカウンターを離れかけると、隅の二人掛けの席に坐っていた直瀬が、すらりとした上背をみせて立ち上がった。
「あの、よかったら、こちらで一緒に」
未対は瞬間、彼を認識出来ずに戸惑ったが、気がついて、
「ええ。もちろん、喜んで」と応じた。
直瀬とは中学の同級で、あまり親しくはなかったものの、半年ほど前にここで再会してから、しょっちゅう夕食を共にするようになっていた。
当時は、クラスで一番背の低い、大人しい優等生のイメージだったのに、穏やかな人柄はそのまま、身長ばかりが伸びて、ずいぶんと頼もしく見えた。現在は区役所に勤務しているらしい。懐かしく学生の頃の話をしているうちに、同じ映画や作家を好きなことが分かり、無邪気にお喋りする時間だけ、職業上のプレッシャーや恋人との不和を忘れさせてくれた。
「夕方、ショコラトリーを覗いてみたら、人だかりがしていて、怖くて近よれなかった」と直瀬は柔らかく苦笑した。
「来てくれたのね。あたし、ちゃんと笑えてた? 眉間にしわを寄せて、険しい顔をしていなかった?」
直瀬がメインに牛肉の赤ワイン煮込みを選んでいたので、未対も同じものをオーダーした。
「完璧な接客だったよ。このあと、パーティの予定とかあるの。いや、そうか、明日も仕事だよね」
「迷ってるところ。一応、チケットは買ったし、明日は遅番だし、どうしようかしら」
彼が見慣れた、いつもの白やライトブルーのシャツではなく、きれいなグレーのセーターを着ていることに、未対はようやく心づいた。
「いやだ、今日が土曜日だって、もう忘れていた。さっきまで、イヴと週末が重なるなんて最悪、って愚痴っていたのに。今日はお休みで、だからいつもと雰囲気が違うのね」
「私服、変かな」
「いいえ、素敵よ」
デザートを待つ間、直瀬は小さな紙のバッグを未対の方へ差し出した。
「ささやかだけど、クリスマスのプレゼント」
「どうもありがとう。あたし、プレゼントなんて、思いつきもしなかった。今度、弊社のトリュフを進呈するわ」
「どうぞお構いなく。開けてもらってかまわないかな」
バッグに入っていたのは、バラ色の包装紙に包まれた長方形の箱で、オーガンジーのリボンを解いて取り出すと、金色のキャップのついた白いチューブのハンドクリームが現れた。チューブには金色のラインで、紋章のような蜜蜂が描かれている。
「とっても嬉しい。ここのブランドのリップグロスを使っているの」
「良かった。せめて、迷惑がられないプレゼントは何なのか、リサーチしてみたんだ。これに決めて正解だった。使っているのなら、ぼくより詳しいだろうけど、成分が蜂蜜で、蜂蜜と僅かにスズランの香りがして、これならチョコレートの邪魔にならないかな、って。その匂い、苦手じゃない?」
さっそくクリームを塗りこみ、未対は手の甲を鼻に近づけて嗅いでみた。
「せっかくだけれど、辺りのお料理の匂いに負けてしまって、繊細な香りが分からないわ。ほら」と笑いながら、直瀬の顔の前に右手を伸ばした。
珍しく饒舌だった彼が急に黙りこみ、ひどくたじろいだ様子を見せたので、その態度が未対を驚かせた。
「……ああ、うん、そうだね」
「帰ってからの、お楽しみにさせてもらうわ」
未対は既に、去ってしまった恋人と直瀬の比較を始めていた。彼らの違いを指摘しては、直瀬を否定しつづけた。恋人だった男に執着する理由は彼女にも解明出来ず、だからといって、すぐに忘れられるものでもない。
二人の微妙な空気に頓着なしに、ウエイトレスがデザートを運んで来た。アイスクリームのプレートには、未対が押しつけたチョコレートケーキも載っていた。
* * * *
街の華やぎが作用したのか、未対は少しパーティの気分を味わいたくなり、直瀬を伴い、クラブへ足を向けた。雑居ビルのエレベーターが開いたとたん、廊下にもレコードの低いリズム音が充満し、受付係の女の子二人が、ハッピーホリデーと声を揃えて、未対たちを迎えた。
ファーのついたイヌイットみたいなロングコートに、サンタクロースの帽子を被った二人組は、未対も親しくしている洋服屋に入り浸っているので、よく知っている。
「チケットが行方不明かも」とハンドバッグを探る未対を制し、直瀬が二人分の代金を払おうとすると、受付の女の子が、
「未対ちゃんは、購入者リストで確認出来るから、大丈夫です」
「あと、チケット代には、0時に乾杯するスペシャルなカクテル代も込みなので、アルコールがダメなひとは、カウンターに申しつけてくださいね」と、もう片方が未対と直瀬の手に、スタンプで印をつけた。
クラブの入口に歩きかけると、歓声をあげながら、デヴィッド・ボウイみたいな淡いペパーミントグリーンのパンツスーツを着た筋肉質の青年と、スチームパンク風のロリータが、轟音から吐き出されるように、鉄製のドアを押して駆け出して来た。
青年は未対を見つけるなり、きゃあきゃあはしゃいで彼女に抱きつき、
「冬休みになって、やっと帰省できた」と云った。
友達のレコード店で知り合った彼は、高校を卒業して、東京のアートスクールに通っている。連れのロリータは、知人の美容室で働くインターンだ。
彼は口早に近況を捲し立ててから、
「じゃあ、積もる話はまたあとで。コンビニに、アイスを買いにまいります」と未対と直瀬に手を振り、受付の女の子たちには、肉まんでいい? と尋ねて、腕を組んだロリータとエレベーターに乗り込んだ。
呆気にとられた直瀬が、
「随分と、賑やかだね」と嘆息するように云った。
「若いからね」と取り繕いながら、未対は彼を促した。
店内に入ると、音量は圧倒的になり、正面に飾ったツリーの電飾は眩しく点灯しているが、薄暗い中にたくさん人影がうごめいている。左手のDJブースに合図する。目礼を返したドレッドヘアの彼は、未対の知り合いであり、元恋人の遊び仲間だ。
いつもしていたように、ブースの後ろの壁際に荷物を置いていたら、
「なんか、久しぶりじゃないすか。元気でした? 何飲まれます?」
カウンターから大声で叫ぶ、アルバイトのバーテンダーは、さっき受付でスタンプを押してくれた彼女のボーイフレンド。未対はコロナビールを二本、受けとる。
「少し、踊る?」
瓶を持ったままフロアに向かうまでに、友達や知った顔が耳元に話しかけてくる。洋服屋の常連、派手に着飾った美容師、奥で騒いでいたスケーターの男の子たちがドリンクをこぼし、素早くおしぼりが集められる。バッグパックを背負ってうろついているのは、友達の友達の弟。
未対は直瀬の袖を引っぱり、
「トイレが行列していたら、向かいのパーキングにもあるけど、大通りのホテルで借りれば、きれいだから」
云い終わるのと同時に、音楽が止まり、照明も落ちて周囲が暗くなった。ツリーと、ターンテーブルの手元ばかりが明るい。
「メリークリスマス!」とオーナーのアサヒとアルバイトのバーテンが大声で告げると、店内のあちこちで歓声があがり、クリスマスを祝う挨拶が交わされた。鳴り出したピアノのイントロが、ザ・ポーグスの『ニューヨークの夢』だと、未対はすぐに分かった。夢破れた恋人たちが、威勢よく罵り合うけれど、最後にはクリスマスの鐘に祈りをこめる唄。
エッグノッグのグラスと、キャンドルの形のライトが回され始めた。アサヒは次々とカクテルを注ぎながら、
「このレシピだけはスペシャルで、めちゃくちゃ旨いからね。牛乳が新鮮だしね」と自慢している。
曲に聞き入り、過去の回想をよぎらせて茫然とする未対に、直瀬はグラスを掲げ、優しい口調でささやいた。
「クリスマスおめでとう。今日一日、お疲れさまでした」
彼女を瞶める直瀬の眸は、キャンドルの明かりで光っていたけれど、冷たくはなかった。
ザ・ポーグス『ニューヨークの夢』
冒頭に掲げた紫乃さんの俳句から、掌篇小説を書いてみました。「蜜」でイメージするのは、『今夜はブギー・バック』の「甘い甘いミルク&ハニー」でしょう、と言うことで、時期的にクリスマスパーティに設定したら、ミルクたっぷりのエッグノッグもついてきて、「神さまにありがとう」な結果になりました。もっとも、旧約聖書に記された「乳と蜜」の「蜜」は、蜂蜜とは違って、デーツやイチジクで作ったシロップ説もあるようですが。紫乃ちゃん先生も、ありがとうございました。90年代くらいの設定と、ご了承ください。
ちなみに、『ニューヨークの夢』は、個人的にはクリスマスではなくて、『蛍の光』的な、最後の曲だから早く帰って、のイメージがあるのでした。どうでもいいけど。
小沢健二 featuring スチャダラパー『今夜はブギー・バック』