![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154221077/rectangle_large_type_2_468e81648d75493194624551dabdcbcc.png?width=1200)
〈8月のお題〉サッカーボール、カオリン、電気ブラン。
雑居ビルの細い階段を上った先にあるこの店に来た理由は特になく、ただ散歩の延長でたどり着いた店だった。
階段の一段一段に敷かれているグリーンのマットがまるで芝生のようだと思いながら上っているうちに闇雲に店の扉を開いてしまったのだった。
あなたは広い店内の隅に作られたバーカウンターの中にいる長髪の男と目が合う。店内にはその男の他誰もいないようだった。
薄暗い店内を回っていないミラーボールが間接照明の仄かな灯りを跳ね返し照らしている。
「いらっしゃい」と男が言う。
あなたは少し顎を引いて会釈する。
一歩ずつゆっくりとカウンターに進みながら、あなたは店内を見渡している。
カウンター席には座りたくないな、と思ったものの、他に席が見当たらない。
広いスペースには小さな卓球台のような物が四台置かれている。
近寄って見てみると、長方形の緑のフィールドの両端にゲートが向かい合って二台、その間を埋めるように複数の人形が固定されている棒が数列配置されている。
初めて見たが、おそらくサッカーゲームをする台なのだろうとあなたは察する。
✳︎
あなたの右手首が全く動かなくなって、もう二年が過ぎていた。それは徐々に痛みを伴って動かなくなったわけではなく、ある朝いつものように工房に行き作業台に置いたなりにしてあった粘土を捏ねようと、硬い粘土の塊に両手のひらを押し付けた時に気がついた。右手首が全く動かない。まるで石膏で固めたかのように、ぴくりともしない。指先はいつものように動かすことが出来るのだけれど、とにかく右手首が腕から水平に伸びたまま固まっている。あなたは不思議に思いながらも、ひとまずいつも通り、粘土を捏ねようと試みるも、どうしてもやりにくい。
痛みはない。両手の指に不自由はない。左手首にも問題はない、両腕も自由に動かすことができる、手に力も入るのだが、右の手首がどうしても動かない。数日様子を見たものの右手首は固まったまま動かない。湿布で冷やしたり、湯船で温めたり、思いつく処置はしたものの埒が開かないので、1週間後、あなたは近くで見つけた整形外科に向かった。
結果から言うと、問題はなかった。レントゲンをとり、採血をし、触診をし、採血の結果が出る1週間後に再び整形外科に向かい、医者は言ったのだ。
「精神的な問題でしょう」
精神科の受診を勧められたもののあなたは腑に落ちちない。精神的な問題を抱えている自負もなく、今度は県立の総合病院で見てもらったのだけれど、やっぱり同じことだった。
わからないのだという。わかったことは、叩けばカンカンといい音がなりそうなほどに頑なに固まっているこの右手首は、特に身体に問題はなく、動くはずなのだということだった。
朝起きて顔を洗うとまず庭先にある工房に行き、粘土を捏ねる。あなたが、どんなに暑い日も寒い日もやってきたそのルーティーンは、右手首が動かないことで苦行となった。できないことはないのだ。ただ、いつも通りには、できない。
一ヶ月が経った頃には散歩に出かけるようになった。いつも通り朝5時に目が覚め、顔を洗い、工房の扉を開けることなく庭を通り抜け公園の方向に歩いて行く。まだ夜明けのしんみりとした空気を大げさな深呼吸をして吸い込んで吐いて、公園までゆっくりと歩く。公園に着いても特にやることはないので、とりあえずベンチに腰掛ける。犬の散歩をしている人間やいかにも健康的な服装で走っている人間らが目の前を通り過ぎる。飽きた頃にまた歩き出し家に帰ると7時くらいにはなっている。
やることがなくなった。粘土を捏ねて、形を作る。乾燥させて高台を削る。また乾燥させてガス窯に入れて素焼きする。釉薬を掛ける。本焼きする。
カオリン、ベントナイト、アルミナの粉、ロクロ、切り弓、なめし革。触ることのなくなった物たち。埃を被った作業台。
やることがない。でも実際やろうと思えばできるのだ。右手首が動かないなりに、できるのだけれどできなくなった。毎日朝から夕方までやっていたことができなくなって、正確にはできるのだけれどやりにくくなって、やらなくなって、とにかくあなたは時間を持て余し、朝も夜も散歩した。
✳︎
あなたはバーカウンターの隅の席に腰掛ける。座ってみたものの、心許なく感じる居処の掴めない席だった。見知らぬ人間たちと肩を並べて飲む気分でもなかったし、そもそも、飲むつもりがなかったのに、どうしてこんなところに座っているのだろうかと、あなたは思う。
ビール、サッカーボール、電気ブラン、500円。
カウンターテーブルの上に張り付いているメニューが目に入る。
書かれている文字はそれだけだった。
「よくわからない店でしょう」
見上げるとカウンター越しに男が微笑んでいる。
あなたは当てずっぽうに「電気ブラン」の文字を指差す。男は手早くグラスに氷を入れて、瓶を傾けて黄金色の液体をグラスに注いだ。
「今お水も出しますね」
そう言いながら男が差し出した電気ブランのグラスをあなたはうっかり、グラスを掴んだ右手ごとカウンターに落としてしまう。
木製のカウンターテーブルにグラスがぶつかる鈍い音が響いたが、幸い一滴もこぼすことなく、グラスも割れずにすんだ。
「すみません」
「いえいえ、大丈夫ですか?」
差し出されたおしぼりは冷たく心地よく、あなたは無意識に右手首におしぼりを巻きつけている。
「手首、ぶつけましたか?」
男が冷水の入ったコップを、今度は手渡すことなくあなたの前に置く。
あなたは首を振って電気ブランに口をつける。滅多に酒を飲まないあなたは少し舐めて、これ以上飲めない、と思う。
随分遠くへやってきた気がする。見たこともないゲームに囲まれて、聞いたこともない酒を飲んでいる。あなたは左手に持ったグラスを傾けてくるくると回し、少しずつ溶けてゆく氷を見つめている。
「いらっしゃい」
扉を開けてやってきたのは二人組の男性客だった。会社帰りでもなく、散歩の延長でもなく、二人はこの店を目指して来ているように見えた。
「マスター、ビール二つとボール」
一人がカウンターで注文をし、一人はサッカーゲームの台のそばにあるスツールに腰掛ける。
「はい」
男はサーバーからビールを手早く注いで、ジョッキを二つ客に手渡すと、ビー玉くらいの大きさの小さなサッカーボールをカウンターに置いた。
若い客の男はジョッキ二つとサッカーボールを手にサッカーゲームの台へと向かう。
「サイドテーブル使っていいよ」
「ありがとう」
あなたは不思議そうにその様子を見ている。そんなあなたを、男は見ている。
「テーブルサッカー、見たことありますか?」
男はあなたに話しかける。
「いいえ。初めて見ました」
「そうですか。よかったらやりますか?」
「え」
「教えますよ」
そう言ってカウンターを仕切っている木戸から出て来た男に目をやると、ハーフパンツから伸びる右足の膝から下が義足であることにあなたは気がつく。
「じゃあ、そっち側に立ってください」
あなたは言われるがままに、サッカーゲームの台の向こう側に立つ。台の側面からは棒の先がこちら側に四本突き出ていて、あなたは自然とそれに手をかける。
「基本的なルールを教えますね。このハンドルを使って、棒に取り付けられた人形を操作してボールをゴールに入れる。それぞれ四本の棒を操作して決められた得点に達した方の勝ちです。細かいルールもあるんですけど、まずはやってみますか」
男は小さなサッカーボールを人形の前に置いて、ハンドルを操作した。人形はくるんと回転し、蹴り上げられたボールは勢いよく跳ね上がり向かい合う人形の胴体にぶつかりコトリと落下した。
あなたは、両腕がなく胴体を鉄の棒で貫かれた人形を見つめる。右手にあるハンドルをゆっくりと回してみる。人形が回転しボールは少しだけ動いた。
「そうだ。お客さん、手首痛いんでしたっけ? すみません、大丈夫ですか?」
「いえ、痛くはないんですけど…ちょっと、不調で」
「そうですか、一緒ですね」
男は自身の義足を指さしながら微笑んでいる。
「テーブルサッカーってリハビリのために発明されたって言われてるんですよ。怪我をしてプレーができない時もそうだし、試合がない時に勝負勘を取り戻すとか、動体視力を鍛えるためだったりとか、気晴らしのためだったりとか。
僕は交通事故で右足やっちゃったんですけど、足がなくてもできるんでテーブルサッカー始めたんです。でも手首の不調だったら、逆に普通にサッカーできますね、ははは」
そう言って男はあなたに笑いかける。
「あ、何か、手を使うお仕事されてるんですか?」
「ああ、ええと、陶芸家です」
「そうですか、じゃあ足でやるわけにはいかないのか」
「足ですか…やったことないですけど、蹴ロクロって言って、足で回すロクロはあります。でも、わたしは電動のロクロを使っているので、ロクロを回す動力に手を使うことはないんですけど」
「はい」
「右手首が動かないんです。痛くはないですし、それ以外の部分は自由に動かせるので、やろうと思えばやれるんですけど、感覚がうまく掴めなくなって、それで今休んでるんです」
「なるほど、スランプみたいな?」
「え…スランプですか…」
「スランプっていうか、サッカーではあるんですよね、なんか勘が鈍るっていうか、調子が出ないなっていうか。陶芸でもあるのかなって」
「うーん…そうですね、そうかも知れない。でももう2年です。長いですよね」
男はあなたにステンレス製のスツールを差し出す。あなたが腰掛けると、カウンター席から電気ブランの入ったグラスを運び、テーブルサッカーの台の下からサイドテーブルを引き出してそこに置いた。
「気晴らしには電気ブランが丁度いいですよ」
グラスの中でさっきよりも小さくなっている氷をあなたは見つめている。汗をかいたグラスはサイドテーブルを濡らし、水たまりを作っている。
〈了〉
![](https://assets.st-note.com/img/1726257175-Y1hCzRSXp8luvBjdI7xJWw95.jpg?width=1200)