#0040【ロレンツォ・デ・メディチ(イタリア、15世紀後半)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週はイタリアのフィレンツェ特集です。フィレンツェは15世紀にルネサンスの中心地として栄えた地域です。この時代に活躍した人物たちを取り上げます。
本日紹介するロレンツォ・デ・メディチは、フィレンツェを実質的な君主として支配したメディチ家の人間です。
メディチ家は14世紀後半から銀行業で成功し、その財力をもってローマ教皇庁の金融業務で優位な地位を占めます。ローマ教皇人事に介入するほどの勢力を誇り、フィレンツェにおいても、15世紀後半にはメディチ家の派閥が常に多数派となりました。徐々にメディチ家による支配体制が確立していきます。
こういった情勢下、1469年に二十歳の若さでロレンツォが当主となりました。彼は英俊な政治的手腕を発揮し、安定した政治を心がけます。
安定支配の確立が進んでいると思われましたが、1478年にメディチ家によるフィレンツェ支配に反発したパッチィ家が、ロレンツォ暗殺未遂事件を起こします。
ロレンツォ自身は助かりましたが、弟を殺害されてしまいました。ロレンツォは報復としてパッチィ戦争を起こし勝利します。これにより、ロレンツォはフィレンツェにおける絶対的な地位を確立することに成功しました。
フィレンツェ内を安定させたロレンツォは、各都市・各地方に分裂していた中世イタリア半島において、常に勢力均衡と現状維持に努め、無用な戦争を起こさずにフィレンツェの地位を高めていきました。
彼は政治家としてだけでなく、芸術・学術面においても非常に優秀な目を持ち、数々の芸術家や学者を見つけ出してはパトロンとして援助を惜しみませんでした。
「プリマヴェーラ(春)」や「ヴィーナスの誕生」といった絵画で有名なボッティチェリや古代ギリシア哲学のラテン語翻訳に尽力したフィッチーノらを庇護し、その創作活動を支援します。また、若き日のミケランジェロもロレンツォにその才能を見出されています。
さらにロレンツォは芸術家・美術家たちをフィレンツェに抱え込まず、ローマ、ヴェネチア、ナポリ、ミラノなどのイタリア主要都市へ派遣してルネサンス美術をイタリアに広めました。
この芸術家派遣は、芸術振興の目的のみならず、近隣都市との友好関係を維持する外交政策の一環という側面も有しています。
様々な分野で活躍を見せたロレンツォですが痛風に悩まされ、1492年に四十三歳の若さで死の床に伏して、あえなく没します。
ちなみに「帝王病」「贅沢病」ともいわれる痛風は、尿酸値が高いと発症することで有名ですが、遺伝的な要素もありメディチ家代々の持病でした。
死後、彼は他のロレンツォと区別するために「イル・マニーフィコ(偉大な)」と呼ばれるようになり、政治史・芸術史に偉大な足跡を残しています。
以上、本日の歴史小話でした!
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