#0117【驕れるものは久しからず(平家政権)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
保元の乱と平治の乱を勝ち抜いた平清盛と平家一族は我が世の春を迎えます。
1159年に起きた平治の乱に勝利した清盛は、1160年に武士で初めての公卿(最高級貴族)の仲間入りを果たします。
その後も順調に出世を重ねて1167年には太政大臣へと昇りつめます。この頃になると平家一門の公卿の数は16人、殿上人(高級貴族)は30余人という大勢力となり、藤原氏ですら清盛の顔色を窺うようになります。
そして、1171年には清盛の娘が高倉天皇へと嫁ぎます。
平家政権を支えた基盤は、西国特に瀬戸内海を中心とした海上利権を軸にした経済力でした。
そのため、瀬戸内海の航路の守り神でもある厳島神社を厚く敬い、改修工事等も積極的に行いました。
中央行政だけでなく、日本の約半分の地方行政も平家が握り、ここからの利権も平家を支える財政基盤となりました。
権勢を強めていく平家に対する反感は徐々に高まっていき、1177年には鹿ケ谷の陰謀が発覚します。
これは平家打倒を目指した貴族や僧侶が中心となった動きでしたが、清盛が先手を打って首謀者を捕縛して、流罪に処しました。
後白河法皇(出家した元天皇)も謀議の場にいましたが、この時点では清盛は決定的な対立を避けて、後白河には何の処分も下していません。
しかし、両雄並び立たずの格言通り、やがて院政を敷いていた後白河法皇と清盛は決定的な対立を迎え、1179年に清盛は後白河を幽閉することにしました。
翌1180年には自分の娘が産んだ満1歳を迎えたばかりの幼児を安徳天皇として即位させました。
もちろん、清盛は外祖父(母方の祖父)として全ての権力を握りました。
貿易をもっと大々的に行いたい清盛は、同年1180年に福原(神戸)へと遷都を実施しますが、これには身内からも反対意見があり、その年のうちに京都へと戻りました。
さて、平家によって初めて武士は政権を握ったのですが、その内容はこれまで見てきた通り、平家が貴族化していくというものです。
更に清盛は天皇の外祖父にまでなり、貴族の中の貴族である藤原氏化が進みました。
これでは、藤原氏の代わりに平家が成り上がっただけであり、一般の武士たちにしてみれば、何も変わらない状態です。
結局、一般武士たちの土地所有権の公的承認という恩恵は行き渡らず、平家とその周囲のみが栄えただけだったのです。
1177年の鹿ケ谷の陰謀は貴族を中心とした反平家運動でしたが、1180年には遂に平家に反感を持つ武士が立ち上がっていくことになります。
平家物語に詠われた「驕れるものは久しからず」の幕開けです。
続きは来月の日本通史シリーズで取り上げます!
以上、今週の歴史小話でした!
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