#0235【阿弥陀如来と念仏(鎌倉新仏教)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は日本史通史シリーズにおいて取り上げた鎌倉新仏教の中でも念仏に注目したいです。
今回は、浄土宗を開いた法然(ほうねん)とその弟子であり浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)の二人を取り上げます。
法然は水曜日に、親鸞は金曜日に個別にお話ししますが、まずは二人の教えの根幹たる「阿弥陀如来と念仏」について解説します。
浄土宗も浄土真宗も、極楽浄土にいる阿弥陀如来を信仰する点では同じです。
その極楽浄土に行くための手段が、仏を念ずる「念仏(南無阿弥陀仏)」です。
それまでの仏教では、人間が救われるためには覚りを開く必要があり、そのための手段は確立していませんでした。
仏教の根本を築いたお釈迦様も覚りを開いた状態についての言葉はたくさん残していますが、そのためにどうしたらいいのかは明言してくれていません。
イメージを持っていただくために一つ例え話として、スポーツや絵などの才能で考えてみましょう。誰もがある一定レベルの状態になることはできると思います。100mを12秒台で走ったり、模写が上手になったりします。
しかし、そこに至るまでの道は人によって違います。大した修行をせずともそのレベルに達する人がいる一方、かなりの基礎トレーニングを積まないと到達できない人もいます。
人は持って生まれたものに違いがある。誰もに覚りの道が開かれているわけではない。というのが初期の頃の仏教の教えなのです。
残酷なようですが、現実社会で考えてみると実際に人間には差があります。
仏の道を歩むにもその違いがあり、覚りを開く人と開けない人がいます。
今もタイやミャンマーなどの仏教ではここに厳密な違いを設けており、現世で覚りを開くことができない人はお布施などを通じて功徳(くどく)を積んで来世により立派な人生を歩めるようにと考える宗教観を抱いています。
しかし、 当初のお釈迦様の仏教は、日本にやってくるまでの間に中国・朝鮮半島とで変化をしてきました。人間には誰しもが覚りを開く素養がある。トレーニング次第で誰でも陸上の世界で金メダルを取ることができると変容していったのです。
そのトレーニング方法をどうするかがポイントになってきますが、阿弥陀如来という仏様(厳密には如来さまですが)は、覚りを開くにあたって修行をし、その過程で自分が覚りを開くことができたら48の良いことをしようと願いを立てます。ちなみにこれが「本願」と言われるもので、築地本願寺や本願寺の名称の由来となりました。
この阿弥陀如来の本願の中に、現世で覚りを開けなかった(仏になれなかった)人たちが私のところ(極楽浄土)にやってくれば、覚りが開けるようにしてやろうというのです。
阿弥陀如来にすがれば、仏になれる。ここから転じて人が死ぬことを「成仏(仏に成る)」というようになりました。
本来は浄土宗でなければ使うことができない表現です。今では宗派に関わらず、日本語の慣用表現として存在し、我々の日本語表現に根強く影響を与えています。
さて、ではどうやったら、極楽浄土に行って、成仏することができるのか。それは阿弥陀如来にすがると宣言すればよいということになります。そこで念仏(南無阿弥陀仏)が重要となってくるのです。
以上、本日の歴史小話でした!
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