#0060【鳩山一郎(日本、20世紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

戦後日本の政治家として今週は「鳩山一郎」を取り上げて締めくくりたいと思います。

鳩山一郎は1883年に生まれます。政治家であった父の死去後、1912年に東京市会議員となり、1915年には立憲政友会の公認を得て衆議院議員となります。翌1918年には長男威一郎が誕生します。公私ともに順調なスタートを切った鳩山は1926年に田中義一総裁に気に入られて幹事長に抜擢されます。1927年になると田中義一内閣で内閣書記官長に登用されるなど、立憲政友会でエリートコースを歩みます。

張作霖爆殺事件の責任をとって田中義一内閣が総辞職した1929年にライバル政党による濱口雄幸内閣が成立すると、鳩山はロンドン海軍軍縮条約批准について濱口内閣を「天皇の統帥権(とうすいけん)を侵害している」と攻撃します。明治憲法では、軍事に関する権限は内閣を経由して存在するものではなく、天皇が直接軍部に関して権限(統帥権)を保持していると考えられていました。軍縮について内閣が条約批准を検討することは違憲であると、鳩山は主張したのです。さらに濱口首相狙撃事件が起きて若槻内閣になると陸軍首脳と手を組んで倒閣に成功します。

鳩山は1931年から文部大臣の職につき、1933年には京大教授の滝川幸辰の無政府主義的な学説を批判し、文部大臣の権限を使って休職処分にします。

こういった行動を戦後GHQから問題視され、#0059三木武吉で触れたように1946年の総選挙勝利後の組閣作業中に公職追放処分にされました。

戦争中は自由主義政党人として議会制民主主義を守る立場で活動をしていましたが、大局を見失って政局のために軍部に接近した行動を取ったツケが回ってきました。

1951年に追放処分解除後には、再度総理大臣を目指そうとしますが今度は脳溢血で倒れてしまいます。

しかし懸命のリハビリと三木武吉などの盟友たちの力を借りて1954年に遂に吉田内閣を倒し、鳩山内閣が成立します。首相になってからは、新聞記者に「音羽邸(鳩山の自宅)は『天下の公道』だと考えていつでも来なさい」と語るなどの逸話を持っています。

機密保持が苦手な点や人を信じやすい点など「お坊ちゃん」としての弱さがありましたが、三木武吉が大いに支えてくれたと思います。

1955年に自由民主党を結党し、初代総裁となりました。総理大臣としての業績としては1956年に「日ソ共同宣言」による国交回復、これに伴う国連加盟実現が上げられます。また、エネルギー政策として原子力基本法を成立させました。

日ソ国交回復後に内閣総辞職、政界引退します。療養生活を送りますが、1959年に没しました。

息子の威一郎は外務大臣、孫の由紀夫は総理大臣、邦夫は総務大臣を務めるなど鳩山家は政治一家として現在に至っています。

以上、今週の歴史小話でした!

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