#0053【マリア・ヴァレフスカ(ポーランド、18C末-19C初)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
ナポレオンの妻シリーズ第二弾は、ナポレオンのポーランド妻として名前を残しているマリア・ヴァレフスカを取り上げます。
彼女はポーランドの由緒ある貴族の娘として1786年に生まれますが、ポーランド義勇軍に参加した父が1794年にロシア軍に殺された後、生活に困窮するようになります。
やがて16歳になり美しく成長したマリアはヴァレフスキ伯爵に見初められて求婚されます。マリアの実家の借金を全て肩代わりするとの条件とともに。
ヴァレフスキ伯爵は当時62歳で、2度妻と死別し、一番下の孫娘ですらマリアよりも年上でした。
経済的な困窮から脱するためマリアの母エヴァはこの申し出を受けることを決めます。マリアは寝込むほどのショックを受けますが、1804年6月にヴァレフスキ伯爵と結婚し、翌年には長男を産みます。
この当時のポーランドはプロイセン・オーストリア・ロシアの手によって国土を分割させられ、1795年には完全に消滅していました。
不本意な結婚をし、また父をポーランド防衛戦で失ったマリアは心のよりどころを信仰とポーランド復興運動に求めます。ヴァレフスキ邸は愛国者たちの集会所のようになっていきました。
1806年12月にプロイセン・ロシアとの闘いのためにナポレオンがワルシャワに訪れます。1807年1月に催された舞踏会でナポレオンはマリアに一目惚れしてしまいます。ナポレオンは早速、花束と手紙を贈って彼女に求愛します。
敬虔なキリスト教徒で貞淑なマリアはナポレオンの求愛を無視し、拒みます。しかし、ナポレオンにポーランド復興の可能性を見出していた愛国者たちはヴァレフスキ邸に赴いてはマリアの説得に励みます。最後は夫も承諾したことからマリアはナポレオンの愛人となる道を選びます。
マリアはやがてナポレオンを本気で愛するようになり、二人は熱烈な愛を育みます。そして1809年9月にナポレオンに妊娠を告げます。この告白を受けて自分の生殖能力に自信をもったナポレオンはジョゼフィーヌとの離婚を決意します。
マリアは自分がナポレオンの正式な妻になれるのではないかと期待しますが、ナポレオンはヨーロッパ王室から妻を迎えることに決めて1810年4月にオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚します。マリアは1810年5月に彼との間に男子アレクサンドルを産みますが、この子はヴァレフスキ伯爵の子どもとして認知されました。
ナポレオンに捨てられた格好となったマリアですが、ナポレオンが1814年に連合軍に敗れてエルバ島へ流刑となった際には、エルバ島のナポレオンに会いに行っています。
1815年にナポレオンはエルバ島を脱出し、一時皇帝に返り咲きます。その後ワーテルローの戦いに敗れて僅か3か月で再度退位し、今度は地中海ではなく、赤道近くのアフリカ大陸西岸の孤島セント・ヘレナへ流刑となりました。マリアはアレクサンドルとともに流刑前のナポレオンと会い、涙ながらにセント・ヘレナ島へ自分も連れていって欲しいと訴えますが、ナポレオンは承諾しませんでした。
ナポレオンと別れたのち、彼女は憔悴し1817年12月に31歳の若さで亡くなります。彼女の息子アレクサンドルは、従兄弟ナポレオン三世の下で外務大臣として働きました。
ポーランドはナポレオンの力で一時、ワルシャワ大公国として一定の復活を見せましたが、ナポレオン失脚後は再び、世界地図からその姿を消します。ポーランドの名前の復活は、ヨーロッパが血みどろの争いを経た第一次世界大戦後を待たねばなりません。
以上、本日の歴史小話でした!
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