#0181【君死にたまふことなかれ(与謝野晶子、1878年‐1942年)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は明治を代表する女流作家を紹介したいと思います。
まずは『君死にたまふことなかれ』で有名な与謝野晶子です。
晶子はペンネームで本名は「志よう(しょう)」です。そこから晶(しょう)としてペンネームに用いました。以下本文では晶子に統一します。
晶子は1878年に大阪で老舗和菓子屋を営んでいた鳳(ほう)家の三女として生まれました。
家業は没落しかけていましたが、9歳で漢学塾に入り、お琴や三味線などの習い事もし、女学校に入ると源氏物語などを読みふけるようになります。
また、兄の影響で小説も読み始め、明治初期・中期の文豪ともいえる尾形紅葉や幸田露伴、樋口一葉などの作品を読むのが一番の楽しみだったと後に述懐しています。
文学少女はやがて自らも文学を志すようになりました。
女学校を卒業した後は、家業の和菓子屋の店番をしながら和歌を投稿するようになり、1900年に浜寺公園の旅館で行われた歌会に参加します。
そこで彼女は人生を激変させる人物と出会いました。
与謝野鉄幹(よさのてっかん)。
当時、歌人として名を馳せていた男です。晶子は彼の文学的才能と人物に惚れ込んでしまいます。そして、二人はやがて男女の仲になるのですが一つ重要な問題がありました。
鉄幹には妻がいたのです。晶子と鉄幹の関係は不倫からスタートしました。
それでも晶子は鉄幹が創立した『明星』という文学雑誌に短歌を発表。1901年には大阪の実家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに歌い上げた処女歌集『みだれ髪(鳳晶子名義)』を敢行して、浪漫派歌人として独自のスタイルを確立しました。
その後、鉄幹は離婚。晶子と再婚し二人の間には12人の子どもが誕生しています。
1904年には日露戦争に従軍している弟の身を案じて『君死にたまふことなかれ』を発表。反戦的で愛国的ではないと当局から白い目で見られましたが、女性たちの心を掴み、文壇における彼女の地位は不動のものとなりました。
その一方で、家計的には鉄幹の詩集の売れ行きが悪く、子だくさんの家を保つために晶子はくる仕事は全て引き受けてやりくりをしていました。
多忙な中でも即興短歌の女性の会を開催したり、源氏物語の現代語訳を刊行したり、詩作、評論などの活動に精を出しました。
やがて鉄幹も大学教授の職に就くことができ、経済的な落ち着きをみせるようになります。
明治が終わったあとも、1921年(大正10年)に男女平等教育を訴え日本で最初の男女共学校を成立させるなど、女性解放思想家としても大きな足跡を残しました。
1942年(昭和17年)に荻窪の自宅で死去。
63年に及ぶエネルギッシュな人生を送った与謝野晶子。彼女が残した歌は5万首にも及ぶとのことです。
以上、本日の歴史小話でした!
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