#0041【サヴォナローラ(イタリア、15世紀後半)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今日はフィレンツェで神権政治を行ったキリスト教宗教改革の先駆者に数えられるサヴォナローラを紹介します。
彼は1452年にフェラーラというイタリア北部の都市に生まれます。医者の家系で、自身も医者となるべく医学校への進学準備をしていましたが、突如それを放棄してドミニコ会というキリスト教修道士の組織に入りました。
1482年にフィレンツェにある修道院に赴任すると、その説教壇から痛烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりを批判し、民衆に対して「信仰に立ちかえれ」と訴えかけます。
当時は、#0040で紹介したロレンツォの下、ルネサンス文化が大きく花開いていた時代でした。同時にフィレンツェ市民の経済格差も広がっており、メディチ家による実質独裁政治への批判もありました。
サヴォナローラは「このままではフィレンツェに災難がやってくる」と予言します。
ロレンツォ死後の1494年にフランス軍がフィレンツェに侵攻してきましたが、メディチ家は適切な対応が取れなかったためフィレンツェを追放されてしまいます。その代りに予言を的中させたとして民衆からの信望が高まったサヴォナローラが政治顧問として政治を動かすことになりました。
政治の実権を握ったサヴォナローラは、ローマ教皇に対しても「堕落している」と批判を繰り返したため、当時のローマ教皇から1497年に破門されてしまいます。
破門されても、自身の理想を求めて贅沢品や美術品を焼却処分する「虚栄の焼却」を実施し、市民生活は殺伐としたものとなっていきました。
この厳格で強権的な姿勢に反発が強まった結果、対立組織の修道士から1498年に「神の加護があるなら火の中を歩けるはずだ」と挑発を受けます。4月7日に予定されていたこの「火の試練」は結局実施されませんでしたが、暴徒と化した民衆が4月8日にサヴォナローラを拘束し、激しい拷問を加えました。
ローマ教皇の意向を受けた裁判が実施され、翌5月にサヴォナローラは絞首刑となり、その後火刑に処されることになりました。
#0023 【ジャンヌダルク】でも触れましたが、死後の復活を信じるキリスト教徒にとって遺体の焼却は、最大の罰でした。
彼の死後、追放されていたメディチ家がフィレンツェへと戻りますが、往年の輝きは失われてイタリアルネサンスは終息へと向かいます。
ところで、ローマ教皇はなぜここまでサヴォナローラを目の敵にしたのでしょうか。そして、サヴォナローラは何を批判したのでしょうか。
ローマ教皇庁は、宗教的な悪行をしたとしても教皇庁が発行した「免罪符」を購入すれば、その罪は赦されると説いていました。そして、この免罪符の販売収入は教皇庁の重要な資金源となっていました。
これをサヴォナローラは厳しく批判したのです。今日的感覚からしたら「そりゃダメだ」「サヴォナローラの言う通りだ」と感じられる方が多いと思います。
でも「初詣に行ってもお賽銭を投げるな!神様の歓心を金で買うな!」と言われたらどうでしょうか。
各時代において、宗教的な感覚や対応というものは移り変わっていく部分もあります。
キリスト教の宗教改革については、別途機会を設けてご紹介します。
以上、本日の歴史小話でした!
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