#0166【失意の結婚、決意の治世(エカテリーナ二世)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。今週は西欧の女帝特集です。
まずロシアのエカテリーナ二世を紹介します。実はエカテリーナ二世は、ロシアの女帝として君臨するのですが、生粋のロシア人ではありません。
彼女はドイツ語を母語とした北ドイツ(現ポーランド領)の貴族の娘として生まれゾフィーという名前でした。ところが彼女が14歳のときにロシア皇太子ピョートルのお妃となることが決まりました
家柄的にも決して高くない身分でしたが、ゾフィーの伯父で早世したカール・アウグストが、ロシア女帝エリザヴェータの元婚約者だったという縁で、皇太子妃として1744年にロシアのサンクト・ペテルブルグへとやってきたのです。
ロシアに嫁入りしてからはロシア語の勉強に励み、高熱を発しても勉強を続ける姿勢にエリザヴェータ女帝もロシア国民も心を打たれたというエピソードをもっています。
そして、宗教もロシア正教に改宗し、名前をゾフィーからロシア風のエカテリーナに改名。誰よりもロシア人であろうと努めました。
夫のピョートルもロシア皇族の血を引いているものの生まれはドイツであり、ドイツ語が母語でした。
彼はエカテリーナとは違ってドイツ風にこだわり続けました。プロイセン(ドイツ西部)と敵対関係にあったロシアの状況を異に介さず、ドイツ式兵隊ごっこに興じるなどロシア貴族の反感を買います。
また彼には男性能力に欠陥があり、結婚後もエカテリーナとの間に夫婦関係が長期間にわたってありませんでした。
後にピョートルが手術を受けて夫婦生活が始まったころには、エカテリーナは半ば公然と他のロシア貴族と関係を持つようになりました。このエカテリーナの行為については、次代の皇位継承者誕生に頭を悩ませていたエリザヴェータ女帝の黙認があったと伝えられています。
ピョートルも別に愛人を持つなど二人の夫婦関係は完全に仮面状態に陥ります。
1762年1月(グレゴリオ暦)にエリザヴェータ女帝が死去すると、ピョートルは皇帝に即位し、エカテリーナは皇后となりました。
この頃ロシアはプロイセンとの戦争を優位に進めていましたが、プロイセンのフリードリヒ2世を信奉していたピョートルは突如として講和を結びます。
さらに、ピョートルは、ロシア正教会への弾圧も開始。加えてロシア貴族の支持が高いエカテリーナを皇后から廃位しようと計画を練ります。
エカテリーナは愛人との間に子どもを授かり妊娠中であったため、すぐに反撃に出ることができませんでしたが、出産を終えた1762年7月にロシア貴族の近衛兵やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行。この時、彼女は馬上にあって男装の軍服に身をまとって全軍を鼓舞したと伝わっています。
ピョートルを押しのけてエカテリーナがロシア皇帝に即位し、女帝エカテリーナ二世となりました。
あわれ、ピョートルは僅か半年で皇帝位を剥奪されて幽閉。その後、急逝しています。エカテリーナ二世は関与を否定していますが、彼女の地位安定を考えた側近によって暗殺されたと言われています。
彼女は愛人のポチョムキンを右腕にして、ロシアの近代化に邁進し、トルコとの戦争、ポーランド分割などロシアの拡大に勤しみます。また、有名なエルミタージュ美術館は彼女の手によって蒐集されたものです。
啓蒙君主として、自由主義に理解を示していましたが1789年にフランス革命の勃発を聞くと国内の引き締めを敢行し自由主義の弾圧へと舵を転じ、1796年11月に67歳でこの世を去りました。
フランスでの革命の嵐は、やがてロシアとナポレオンの対決へと繋がっていきます。
以上、本日の歴史小話でした!
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