創作と生きていく

お久しぶりです、しばらく文を書いていなかった物書きです。もの書いてる場合じゃなかったんですよね。

で、何の話かと言いますと、精神が落ち着いた状態でもう一度自己分析をしたいと思います。自分とウマ娘の分析です。

以前、私は「主人公の部分に頭を突っ込む」という表現をしましたが、どうもそれは何か違うのでは?と思い始めました。というのは、主人公に明確なキャラ付けがされた創作をいくらか見たからですね。こういう楽しみ方が本来のものだった場合、私は勝手にゲームの捉え間違いをして勝手に怒っていたことになります。だとするととても恥ずかしいですね。では実際どうなのでしょうか。

普通の創作から考えましょう。ある創作は、何らかの問題、課題を抱えた主人公というのが存在します。家族を殺された竈門炭治郎や、母親を助ける空条承太郎ですね。こういうものは、もちろん主人公のキャラ付けが明確に行われており、さらにあまり移入したくないという共通点もあると考えています。刀を持って鬼と戦う、というのはできればやりたくないですよね。なにせ課題がある以上、移入しても辛いと分かっていますし。

またある創作では、明確な課題はないけれども主人公が存在するものもあります。チェンソーマンや日常なんかですね。こちらも主人公のキャラ付けはされていますが、移入は「まあしてもいいかな」となることが多いように思います。ハリーポッターの世界なんか、入ったら楽しめそうですよね。

では、主人公のキャラ付けがされてない創作とはどんなものでしょうか?これは漫画や小説などではなく、ゲームでしかありえないと考えています。では、それらは移入を前提に作られているでしょうか?

格ゲーは移入もクソもないですね。創作ですらない。RPGは、「気づいたら移入している」という表現が正しいと思います。これは前回出なかった考えです。やっていくうちに、勇者やポケモントレーナーになっているのです。育成ゲームは、移入しようがないですね。育てる対象がバリバリに動き回るので。恋愛ゲームは、「移入できるように作られている」だと思います。それが目的のものですし。

では、ソシャゲはどうなのでしょう?あれは育成ゲームなのか、それとも恋愛ゲームなのか?たぶん、「恋愛対象を育てる」育成ゲームではないでしょうか。つまり、がっつり移入する設計ですね。良かった。

こういう見方をすると、結構新しいものが見えてきます。それなら恋愛創作に溢れるのも当然ですし、激重感情の波が発生してもおかしくない。なんだ、ウマ娘を始めとするソシャゲは恋愛ゲームだったのか。ならそう言ってほしかった。私はああいうものを、純粋な育成ゲームとして捉えておりましたので、恋愛的設計に文句を言ってしまったのでしょう。

ですが、新たな問題点も見えてきます。恋愛ゲームは手間をかければだいたいのルートを制覇できますが、恋愛育成ゲームですと課金が可能、というか必要になってきますよね。これはもう貢いでいる状態になるのでは?と思い始めてきました。まあ、当人達はそこにこそお金を使うものだと言っていましたが。

恋愛育成ゲームということは、創作もそれに沿ったものになって当然ですが、その中で育成部分よりも恋愛部分が目立っていたのでしょう。しかし今では、だいたい同数くらいになって来ましたから、それも私が冷静になれた理由の1つでしょう。

この世にはいろんな種類の創作がありますが、その種類を見間違えると対応を間違えてしまうことがあります。創作の方は「わたしはどうたらこうたら」とか言いませんから、自分の目で見抜く能力を鍛えるのが良いのでしょうね。全ての創作を受け入れるのが最良だとしても、おそらく私は文句を言い続けるでしょう。それでも、新しい創作は増え続けますから、せめて見抜こうとする意識は持ち続けたいものですね。

よし、文を書く良いリハビリになりました。私は私の好きな創作をしようと思います。移入できないが、世界を掘り下げる創作を。それでは。

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