視野が狭いと何が起こるか
最近また「気づき」を手に入れたので、ここで出力させていただきます。やっぱ、吸ったことは吐かないとね。勉強もそうだね。
さて、以前私は気が狂いかけるという経験をいたしました。その様子は以前の文章で読めるのでぜひ。見返したら酷すぎて嫌になりましたけどね。で、原因が今まで関係ないだろうと考えていた部分にあったのを見つけた、という話でございます。
そもそも私は自分を創作者だと考えていました。考えていた、というかそうありたい、という願望の方がちかいかも。とにかく、新しいものを生み出そうと考えて、形にして、人に見せるということを繰り返してきました。その過程でいろいろ勉強したのですが、面白さを出す工夫というものに心を奪われたのですね。あるものが面白いというのは素晴らしいのですが、それよりもそれが面白くありえるギミックと言いますか、そこに惚れました。プログラムのコードの美しさとか、数学の問題の鮮やかな解き方とか、それと似たような感じですね。で、この知識を手にいろいろな作品を見ると、さらに多くの工夫を見つけることができました。いい体験でした。
ここからです。自分で自覚があったのかなかったのか分かりませんが、創作物に対して、「面白いか」よりも「面白く作られているか」を重視し始めていたようです。振り返るといろいろ覚えがあって、「作品の作者は何を思ってこれを書いたのか」とか、「ここの部分には面白くする工夫が使われてないな」とか、ようはメタな見方をしすぎて素直に作品を楽しむことができなくなっていたわけです。
こうして辿り着いた結論が、「全ての創作物は虚構だ」ちょっと言い過ぎですが、でも簡単にまとめるとこうです。どの創作物にも作者がいるし、どの創作物も面白くしようという工夫と努力のもと書かれている。そして存在しない。誰かの空想である。そりゃそうなのですが、そんなことわざわざ作品楽しんでる人に言ったりはしません。でも、私の脳内にこいつが住み着いてしまったのです。
基本的に作品に没入してるときはこんな考えはどっか言って見えなくなるんですよね。でも被害が大きいのはファーストコンタクトで、未知の創作に触れると「作者はこれが面白いに繋がると思ってるのか」と、批判や軽蔑するような考えを持つことが増えました。最低ですが、これが当時の私にとっての「評価」だったようです。
当然、「好き」から生まれる創作や、「金」から生まれる創作もあるわけで、そこにはどうしても面白さを犠牲にせざるを得なかったものも含まれる。当たり前だと思っていたかったのですが、どうも気づいていなかった、むしろ否定していた気がします。全ての創作は全ての部分で面白さを追及するべきだ、と。それを妨げる要素は入れるべきではない、と。なんと視野の狭かったことでしょうか。
視野を広げてもらったことで私は救われました。心を支配していた矛盾から解き放たれ、理解できなかった感情に近づくことができたような気がします。でも完全に受け入れるには、まだまだ時間がかかりそう。
あと、これで私の中の謎は1つほどけたのですが、まだ他にも立ち向かう相手は私の中に存在します。それらとの戦いは次の文章に。