パズルと運命の奴隷

ジョジョの奇妙な冒険第5部「黄金の風」にて、スコリッピという人物が語ったある思想が好きだ。
彼は彫刻家であると同時に、運命を象る石を分身として持っていた。優れた彫刻家は石の中にある運命を形として取り出し、彼の分身は周囲の人間に定まった運命を石の形として表すのだという。人はみな、この形を変えることはできず、運命の奴隷として生きていくしかない、そう彼は語る。
話は変わるが、私はパズルを作るのも解くのも好きだ。種類は様々あれど、ルールが分かれば誰でも解くことができるというそのあり方で、人と人とを繋いでくれる。その中でいつも考えるのが、ルールと結果は運命として決まっているのではないかということだ。
例えば簡単なものとして、19世紀後半に「15パズル」が流行した。スライドパズルで、2つのピースを入れ替えればクリアというシンプルなルールだったが、誰も解くことはできなかった。もちろん現代では、数学の力で解けなかった理由を説明することができるが、重要なのは「ルールが存在すると同時に、数学的な理由からそのパズルは解けないという結論も存在した」ということだ。
少し複雑な例えを持ってこよう。アナグラムというパズルがある。単語や文の文字を入れ替えて別な言葉を作るパズルで、最も有名なのはいろは歌だろう。50音を使ったものは特別にパングラムと呼ばれ、その美しさから現代でも新しく探す人がいる。だが、無限に見つかることはないだろう。というのは、50音を並び替えた組み合わせの数は有限であるというのもそうなのだが、日本語のルールがその数を決定しているのだ。「かるは」という単語は存在しない、などの無数の鎖でパズルを縛ることで、答えは初めから決まっている。
同じパズルでも数学のルールと日本語のルールが登場したが、当然もっと広い範囲に当てはめることができる。人間は100mを8秒台で走れるのか、渋滞を起こさない交通設計はできるのか、戦争の起こらない世界は作れるのか、などの様々な問題は、既に決められたルールによって初めから運命として答えが出ているのだ。ここでの運命とは、スコリッピの見せる未来の話ではなく、可能不可能を決めるものを示す。そしていつかはそれらの答えが人間の手によって掘り出される。望むものは得られないかもしれないが、それに抗うことはできない、という考え方だ。
それでも新たな答えを見つけたいならルールそのものを変えるしかない。再びパズルで例えると、15パズルもコマを持ち上げていいなら簡単に解けるし、パングラムも新しい単語が作り出されれば答えは増える。私はこれをズルだとは考えず、別のパズルを解く行為だと解釈する。あるルールが絶対である必要はなく、より美しいものを生み出せるルールがあるならそちらが優れているだろう。少なくともパズルは、その積み重ねで進歩することができるのだ。
新しいルールを見つけるというのは一見すると難しいことにも思える。しかし、ルールを追加するのもそうだが、既存のルールを破壊することもそれに該当する。ルールを破壊するとそれまで構成されていたものが丸ごと無くなってしまう可能性があるが、それは新しいものを作るチャンスでもあるのだ。逆に、物事を自分の思い通りに進めたいときは、ルールを増やすことで実現する可能性はある。
もしも私が運命の奴隷ならば、自分の体を見つめ直す。そこには必ず少しだけ脆い鎖がある。ひょっとすると誰も触れたことすらないものかもしれないし、その鎖を破壊することで私や人類の形そのものが変わってしまうかもしれない。しかしそこから別な鎖を持ち、新しいどこかに繋ぐかもしれない。
運命だってパズル。私は自由に解きたい。皆さんもパズル、いかが?

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