ぬくもりについて
日が暮れるのが早くなり、寒さも相まって、秋はなんとなく人恋しくなる。
ここのところずっと「ぬくもり」について考えながら浸っているのは、毎年恒例の染色作業(「綺麗な黒を着るために」の記事です)を終えたばかりだからだ。
今年は母との別れがあった特別な年。思い出すのは母の温かくて優しい手。冷たい時もあったのだろうけど思い出せないのは、きっとそれ以上に心がぬくもりを感じていたからだろう。
介護は本当に大変だった。それでも、感謝の気持ちを持ち続けながら精一杯やり切った。悔いはない。
母のぬくもりは私の心と体に染み込んでいる。こんな風に思えるだけで十分だ。
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私の宝物、幼稚園の先生とのやり取りが詰まった『連絡ノート』にも、「ぬくもり」のことが書いてあった。
トモ郎がピタッとくっついて
にこにこっとする
「なぁに?」と顔を見ると
にこーっとする
「ん~?」と顔を覗き込むと
「ぼく、しってるよ」と嬉しそう
「なになに?」って耳を近づけると
「ぬーくーもーり」って小さな声
「ぬくもり、しってるの?」と聞くと
「うん!」って得意顔
「こうやって、そぉっとくっついていると、あったかいでしょ。これが『ぬ、く、も、り』ってなつこせんせいがおしえてくれたんだよ」
……本当に楽しくて幸せな時間だった。この時のことは鮮明に覚えている。
先生がトモ郎に教えてくれた「ぬくもり」は、親子の絆を強めてくれただけでなく、「お母さん」である私の心を満たし、自信を与えてくれたものだったことが、連絡ノートの先生へのお礼から読み取れる。
宝物の「連絡ノート」、大切にしておいて本当に良かった。これがなければ記憶を引っ張り出せないままだ。
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温かな思い出ばかりの中、ふと思い出したことがある。
トモ郎がまだ一歳半くらいの頃、夜中に高熱を出したことがあった。夫は出張中だったので、私は一人でオロオロ。
なんとかして熱を下げてあげたいと、アイスノン、冷えピタ、氷のう、冷たいタオル……考えられるものをすべて試したけれど、嫌がるし熱は下がらない。
泣き続ける姿にこっちが泣きたいよ……と半泣きになりながら、自分の両手を氷水でキンキンに冷やして小さな頭を包んであげたらスーッと気持ち良さそうに眠ったことがあった。
この時の安堵と言ったら……同時に「私はお母さんなんだ」とものすごく幸せな気持ちになったのを覚えている。
例え両手がキンキンに冷えていたとしても、場合によっては心に温かい感情を呼び起こすことは十分にあり、きっと私とトモ郎はこの時、お互いに深い「ぬくもり」を感じ合ったのだと思う。
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いつか記憶が衰え、具体的なエピソードどころか息子の顔さえも分からなくなる時が来るかもしれない。
それでも、過去に感じた「ぬくもり」は、きっと心に残り続ける。
心の奥底に残る「ぬくもりの記憶」は、時を経ても自分を支えてくれる大切な存在になると私は信じている。
うんと歳を重ねた将来の自分のために、今からできることの一つとして、穏やかで温かな記憶を大切にし、そのぬくもりを感じ続けながら生きていきたいと思う。