「本来一つゆえ」雑考―新しい領解文2

 今日は真宗十派の一派、三門徒派の話を聴いて感じた諸々。
 「新しい『領解文』」の「本来一つゆえ」に重なるので、私の以前の記述の続として置かせていただく。
 予備知識はいらないと思うので、早速その動画はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=xqd1_6x6t9E 32′26″

 雪が解けると春になる、といった話がされた。あまり書くとネタバレになるので書かないが、正しいと示された答えはみな、約仏側(を凡智で言語表現した)の見方ではないかとふと思った。

 ふと思ったこと2。
 石原慎太郎の「日本は神の国」は、約仏(仏もなにもないが)的に見れば、確かにそう言えるだろう。そこに「ゆえ」を付け握るから、約仏視点が100%吹っ飛んでしまい、必ずカミカゼが吹く、とか、一億総玉砕、とかになったのだと。
 ただし言うまでもなかろうが、神の国であるのは別に日本だけではない。それを言うならアメリカだってベトナムだって、現地の人は自国を、私たちを育んだ神の国だと主張できるだろう。ただ神の名や体が違うだけだ。米中露もやってることはみんなこんな民族主義だ。そして当然、神の国だから我々を必ず守ってくださる、と言ったら、同じことが起こる。別に、慎太郎発言の真意は筆者の知るところでないが、神の国「だから」と、私が握って私の約生的判断でどうこうすることで道を誤る。

 人心の乱れへの元総長の懸念は理解できるが、あくまでも救いは約仏としてのものなので、凡智には不可思議である救いを約生的に握って「ゆえ」とつけたことで、話の土台がずれて話が通らなくなったのではないか。(これは新しい領解文発布後から多くの人が指摘している)

 ふと思ったこと3。こんなことまで思い浮かんでしまった。(ほぼ独立した内容なので別記事とします)ブッダボットへ浄土真宗などの協力を望む

 もうね、国内最大級教団の一万ヵ寺を束ねるトップが「ゆえ」と豪快に過って反面教師になってくれたおかげで、AでもないBでもないCでもない……とMくらいまでいってるかもしれない。どこぞの馬の骨の自分でも「空」に近づけている気になれるのでありがたい。
(なお現在報恩講挙行中の築地本願寺では、今なお新しい領解文を唱和しているもよう)
 だいたい、本来一つゆえを言い続けるなら、浄土真宗教団だって本来一つであり、法然教団だって本来一つであり、仏教教団だって本来一つであり、そこに「ゆえ」を持ってきたら、十派一絡げでノープロブレム、と聞こえる。ならばそれの体現として、本願寺派総局は率先し、まずは真宗十派含む浄土真宗教団を一つにしてみせてほしいのだ。

いいなと思ったら応援しよう!