保護者批判をしないのは、正義感からではない。
「あそこの親は問題があって」と平気で言葉にする保育士がいる。「親があれなら、子どもは救いようがないよ」そんな風に批判する教育者もいる。
それが称賛されることではないのはきっとみんなわかっている。それでも保育現場やSNSで見聞きすることが少なくない。
言わずもがな、保育者や教員が保護者を批判するのは絶対にすべきではない。「悪口をいっちゃダメだよ」というような優等生の発言みたいだけれど、そういう正義感からではない。無論、悪口は良くないけれど、言いたくなる気持ちは否定しない。
ただ、保育士や教員がそれをしてしまうとみんなに不利益しかなくて、解決からは遠ざかるばかりだということをきちんと意識しておきたいということ。
なぜ僕は絶対に保護者批判をしないか、その理由とそのために気をつけていることを書き留めておこうと思う。
これは、保護者批判をしている人を批判するためではないし、ましてや、実際に困っていたりつらい状況にいる人に我慢をしろというものでもないことを先に記しておく。
1.困っているという姿をみる
まず、いきなり正論だが、どのような意見であっても保護者の要望や振る舞いのほとんどが子どもに関わる支援の対象である。ということ。
それは、なんでもかんでも聞き入れましょうという意味ではなく、もし過剰ととれる要求があったとしても、それをする背景があることを知り、それを考慮したうえで応えたり支援をしていく必要があるということだ。
この視点の切り替えだけで、向き合い方は随分変わってくる。
例えば、「問題を起こしてしまう子を庇って(かばって)反省しようとしない」とか「明らかな嘘なのに子どもの言うことを信じて疑わない」と聞くと非常識だと感じるかもしれないけれど、一概にそんなことはない。
そもそも、子どもの言うことを親が信じることは何よりも正しいことだ。嘘を鵜呑みにするくらいでいい。信じてもらえない、聞く耳を持とうともしてもらえない、というほうが子どもにとっては悪影響だろう。
親は自分の子どもを一番に、その子の言うことをそのまま信じてやればいい。そこに善も悪もない。
冷静に見ろよ、明らかに間違っているだろう、そう思ってしまうかもしれないけれど、それは客観的な立場だから言えること。「子どもの言うことを信じきっている」それが正しい姿だと思えたら、それを前提にして、僕たちは支援できるんじゃないだろうか。
そのために大事にしたいのが「善悪」と二極化して判断しようとしないこと。「どっちが正しくて、どっちが間違っている」という視点だと、非常識だとか傲慢だとか断罪したくなる。その姿勢だと、その言葉がブーメランになってそのまま自分にも返ってくる。善の部分も悪の部分もどちらでもない部分も併せ持っているものだし、また、それは見る人によっても違ってくる。
自分が見ているその人はクレーマーに見えるかもしれないけれど、それだけがその人ではない。自分が見えていない側面がたくさんあることを知る。見えないところで困っていて、それがこのような形で表出しているのかもしれない。「困っているのかもしれない」と一歩立ち止まれるだけでまったく違う姿が見えてくる。
「そのしんどさをどう解消できるだろうか、どのように解決していこうか」という視点を持てば、自ずと批判はなくなっていく。どれだけ一方的だと思える物言いでも、問題をそのままにせず相談してくれたことを、本心から「よかった」と思えるようになる。
2.相談できなくなる保護者がいる
いい親だ悪い親だというような言葉を聞いて子どもの相談を躊躇ってしまう保護者が一定数いるということは、保護者批判をやめる理由として十分じゃないだろうか。
学童保育で働いていると、学校や保育園の悩みを保護者から受けることがある。そのときによく聞くのが「こんなことを言ったらモンスターペアレントだと言われないだろうか」「先生も一生懸命やってくれているので言いづらいんです」という声。
その言葉はそのまま自分にも刺さってくる。ぼくも保護者のみんなから相談しづらいと思われているんじゃないだろうか、と不安になる。
相談の敷居は低ければ低い方がいい。応えられるかは分からないけれど、なんでも言ってみてくださいね、というスタンスくらいでないと相談はしてもらえない。
「問うに落ちず語るに落ちる」という言葉を最近知ったんだけど、人に聞かれたときには用心して答えないことも、自分から話し出したらうっかりと話してしまうという意味のことわざだ。
子どもの思いや保護者の思いもそうだよなと思う。「何かあった?」「どうしたの?」そんな風に聞いても答えてくれないけれど、なんとなく隣にいて過ごしていたら重大な相談をポロッと話してくれたりする。何気なく話し始めた話題から、「そういえば」と切り出されることも多くあるし、その度に「たまたま聞けたけど、喋らなかったら取りこぼしてたぞ」と、普段の意味のないように見えるコミュニケーションがいかに大切かを身に染みて実感する。
聞き出そうとするのではなく、話しても大丈夫と思ってもらえることの方が大切だったりする。子どものこんな姿があって、あんな姿があって、と肯定的に伝え続けていたら、子どもの「良くないと思われるかもしれない姿」も肯定的に受け止めてもらえるかもと思えるし、思ってもらえるようにしていたい。
「親を指導/教育する」という言葉を未だに耳にするけれど、それは保護者側から見れば「正しいか間違っているか」を品定めされているようなものだ。もしそれが、「正しい」だったとしても、評価されること自体がその親を追い込むことになりかねない。
必要なのは、「どんな時でも味方でいてくれる」という信頼ではないか。どれだけ問題だと言われる行動をしても、不適切であっても、味方でいる。前述したとおり、何でもかんでも要求を聞き入れるということではない。味方の立場から、共に問題解決を目指すということ。応えられるかは分からないけれど、なんでも言ってみてくださいね、と対話で問題の本質を見つけて解決していくこと。
自分に向けられた批判でなくても、陰で自分も言われているかもしれないと思ってしまうものだ。そうすると気軽に相談はできなくなってしまう。「非常識だと思われるんじゃないか」「モンペだと言われるんじゃないか」その小さな不安は、放っておいたら解消されるどころか大きくなっていく。そうやって信頼関係は薄れていき、相談できないまま問題の温床は広がっていく。
保育士や教員の言動は、内容がどうであれ親からしたら正解に感じてしまうものだ。そのことを、僕たちはちゃんと認識しておかなければならない。いい親とかダメな親とかどんな了見で言えようか。「自分にとって」都合の悪いものを、軽々しく断罪してはいけない。
3.傷ついていることを言葉にする
ここまでは、いわば正論だ。様々な保護者との関わりで傷ついた保育士や教員からすれば、正論は正論でしかない。正論でそのしんどさを封じるわけにはいかない。しんどい思いを我慢して仕事することが良いわけない。
だから、ダメな行為だよという意味ではなく、保護者を断罪するその批判は、“そもそも正しい表現方法なのだろうか”を考えたい。これは、前述したように、「そういう言い方よくないよ」という正義の言葉でない。その批判が本当に自分の思いなのか、という根本的な話である。
「勝手なこと言わないでほしい」「そんな言い方しなくても」「そんな余裕ないよ」と、様々な思いがあるのなら、そう表現したほうがいい気がする。「一方的に言われて傷ついた」「自分の業務外のことまでお願いされた」「忙しくて余裕がない」そうやってちゃんと言葉にすると、保護者を批判する言葉が的外れなのがわかる。
自分には応えられない。自分は傷ついている。それをまずは見つめたい。わざわざ、正しいことを証明するために「あの人はダメだ」と言わなくてもいい。自分はこう感じたし、今の状況はこうだからこうなんだと言えばいい。
それが分かったうえで、それでも批判するのなら、それは「気に食わない」とか、「許せない」とかだ。個人的な価値観や恨みに近いものだ。仕事に持ち込んじゃいけないだろう。
どんな意見でも、一瞬は傷つく。これは、反射みたいなものだ。どれだけ前向きな意見であっても、現状を批判されたと捉えてしまって傷つく。
攻撃されたと思ったら、その相手に対して攻撃したくなる。それもまた反射のようなものだ。けれど、冷静にその言葉を見つめると、傷つく必要がないことがわかったりする。
これ、本当に気を付けないといけないと思ってて、人格攻撃ではないただの相談も「ケチをつけられた」と思ってしまうのだ。
「こういった心配事があって」という相談が、どうしてか「もっとちゃんと見てくれ」と聞こえてしまう。もちろん、「もっとちゃんと見てくれ」という言葉をはっきりと言われることもあるかもしれないが、それもまた、自分が「ちゃんと見ていない」という事実ではない。正確には「そういう言葉になってしまっている」かもしれないし「そう思わせてしまっている」のかもしれない。こちらに向けられた言葉ではなく、その人の中にある不安やしんどさかもしれない。
「文句を言われた」という気持ちを置いておいて、なぜそう言われたかを考えて改善するということだけに向き合ってみる。伝わっていないのなら伝わるようにすればいい。普段から関係を築いておくとか、普段のその子の何気ない様子を伝えておくとか、いろんな課題が浮かびあがってきたりする。それは、自分がダメなのではなく方法が違っていただけだから、新しい方法に変えればいいだけ。ただそれだけなのだ。
正確に捉えられると、向き合い方は変わってくる。
反射的に傷ついてしまい、なぜ傷ついたのかを見つめる余裕がないときには、また反射的に怒ってしまう。
「だから、冷静に物事を見つめろ!」と言いたいわけではない。もちろんそれができたらいいんだけれど、それは余裕がないとできないのだ。じゃあ、何ができるかと言ったら、「何もしない」ことだ。
つい感情的になって怒ってしまった。泣いてしまった。の、「つい」で保護者批判はしない。衝動ではなくモヤモヤしているものを解消するためにわざわざする行為だ。だから、踏みとどまることはできる。
自分のしんどさを正確に捉えて、正確に表すことは容易にできることではない。だからこそ、安易にその感情を「他人の批判」という形で消化してしまってはいけないのだと思う。
ぼくは、自分がしんどくないことが一番いいと思っているから、陰口を叩いてスッキリするのならそれはそれでアリだと思ってる。身内やSNSに私的な愚痴を吐くのも全然いいと思う。
ただ、目に見える形での保護者批判はまた質が違う。
同じような経験をした人から同調されて、それで痛みが和らいだように感じてさらに過激になっていく。痛みは消えるけれど、それは傷が癒えているのではなく麻痺させているだけだ。
もう一度言うけれど、これは保護者批判をする保育士や教員を批判する文章ではない。「いるいる、そういう先生」と同調はしないでほしい。正しさは、人を攻撃するためではなく、自分を守るために持っていたいと思う。
保護者批判をしそうになった時、それは自分が追い込まれていたり辛くてどうしようもない時かもしれない。その人が憎いのではなくて自分が傷ついているのかもしれない。傷ついているのはその人のせいではなくて環境のせいかもしれない。そうやって自分の気持ちに向き合って、「自分ができていない」なんて思わずに、「いやーさすがにそれはキツいっすわ」てそのままの気持ちを表現できたらなと思う。
そして、そんな辛い思いを含んだ保護者批判を聞いたなら、「いるいるそんな親」「ありえない!非常識!」なんて同調しないでおきたい。だからといって間違っても「悪口はよくないよ」なんて、正義の言葉でその人のしんどさを否定したりもしたくない。
「余裕ない環境ですよね」「いろんな価値観に寄り添うって難しいですよね」と、同じ共感でもその人のしんどさに寄り添って言葉を変えるだけで違ったものになる。その言葉ひとつで向きが変わる。
「相性とかあるんだから、分かり合えない保護者もいるでしょう」と上司から言われたことがある。けれど、僕はそんな風に諦めたくはない。
振り返れば、信頼してもらえないまま離れていった保護者の方や、諦めか呆れかその両方か愛想を尽かしたように関わりを持たなくなってしまった保護者の方もいた。それが一人や二人じゃないから、そんな簡単なことじゃないのは理解しているつもりだ。ただ、それでもそれを繰り返さない方法はあるんじゃないかと模索したい。
子どもも保護者も保育士も教員も、みんながそれぞれがそれぞれのしんどさを抱えている。みんながんばっている。それでも、みんながしんどくない方法がきっとあると思う。自分のせいにも誰かのせいにもせずに、みんながしんどくない方法を少しずつでも見つけていけたらいいなと思う。