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「正しく怒る」ということについて考えてみた

正しく怒るってなんだろう。と少し考えてみた。


新型コロナウイルスの問題が起きてから、SNSでは多方で批判と怒りの声が飛び交っている。

そんななか、「正しく怒れ」という言葉を見かけた。「批判する人」と「しない人」で分断が起きているのだ。ぼくはあえて分けるなら「批判しない」派だけれど、それはいい子ちゃんぶっているとか斜に構えているというわけではない。怒らないわけでもない。

というか、ひとよりよく怒る方だと思う。

ぼくは同僚に「いつも怒ってますね」と言われる。子どもたちに、という意味ではなく、会社や社会や大きな構造にだ。これじゃダメでしょう、といつも怒っている。

伊坂幸太郎さんの「砂漠」という小説の登場人物に「西嶋」という「いつも何かに怒っている男」がいるのだけれど、友人から「西嶋みたいだ」と言われたことを誇らしく思っているくらいには、理屈と怒りと反骨とで生きている自分を好きではいる。


怒ることは健全だし、間違っているとは全く思わない。有用でもある。けれど、「批判をしない」ということが「怒りを表明しない」ということではないと思っている。

批判だけじゃダメだと思っているけれど看過はできない。出来る限り前を向いて問題解決をしたいという思いの人たちがいて、そんな人たちが悩み苦しんでいるのを見かけた。

いい機会だからぼくなりの方法をまとめておこうと思う。誰かに向けての批判ではなく、誰かの救いになれば幸いです。もし文章を読み進めていて傷つきそうになったり、腹が立ちそうになったら読むのをやめてください。ぼくはそれを望まないから。

(あくまでも問題解決のために書いています。怒って発散したい、嫌いなものを抹殺したいという場合には役に立たないと思います)


正しく怒るってなんだろう

今回はこの動画を例に話を進めていく。
https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg20588.html

動画の内容は
「政府からのお知らせです
医師や看護師の皆さんがコロナウイルスの治療を支えています
こうした皆さんのお子さんの預かりを保育園が拒んだり、タクシーに乗せないといった事例が生じています。
そうしたことがないよう正しい情報を入手し冷静な行動に努めましょう」

という音声とともに、保育園の保育士が拒否しているイラストが流れるというもの。

この動画が保育士の人権を軽視したものだと話題になっている。いわゆる炎上だ。


見て聞いて率直にどう感じたか、どのような感情を持ったか、というのはとても大切なことだから、怒ることが悪いことではない。怒りの露出は健全だ。けれど、怒りの表明は「その感情」のままだと、お互いに追い込まれていく。破壊や分断が生まれる。

だから昇華をする必要がある。そのために、自分がなにに怒っているのか、なぜ怒っているのかを正確に理解することに気をつけている。


1.どこからくる怒りか

まず、その怒りが込み上げてきたときにその対象について考えてしまう。けれど、そのことを考えてしまうとどんどん怒りが増すので、とりあえず置いておいて引っかかった火種がどこにあるのかを考えてみる。

コンビニで弁当を買って公園で開けたら箸が入っていないという場面に「ちょ、店員さん!」ってイラッとするけど、そのあと店員さんのことや箸のことを考えるとどんどんイライラしてしまう。なんで怒ってんのか考える。

怒りというのは明確にわかりやすい感情だから単体の感情だと思いがちだけれど、基本的にある感情の反応(反動)だから、なにもないのに怒ったりはしない。攻撃→怒りではなく、攻撃→〇〇→怒りとなる。その〇〇がなんなのかを見つけるようにしている。

例えば、「家族を馬鹿にされる→怒る」を、分解して「家族を馬鹿にされる→自分の大切なものを否定されて傷ついた→ひいては人格を否定されたようだ→傷つく→防衛本能→怒り」という風に。間になにが入るのかを考えてみる。怒りの前には傷つくだけではなく、大切なものを守るための冷静な怒りもある。とにかく、自分の怒りが自分のどの感情からきているのかを考えてみる。

コンビニ弁当の例でいうと、「食べられるとワクワクしてたのに残念」「思い通りにいかなかった」「めんどくさい」というのが間にくるから冷静になったら、「店員さん悪くないな。自分が入れてって言えばよかったしな」となる。小さいことでイライラしなくてすむ。


今回の動画の場合は、「軽視されている」「尊厳を傷つけられた」「傷つく」「悲しい」「危機意識」「呆れ」「そもそもの嫌悪」などそれぞれあると思う。

そう、この怒りの根っこはそれぞれ違う、ということが重要になってくる。内容なのか、タイミングなのか、誰に言われたのか、その引っかかる部分もそれぞれ違うのだ。みんなで怒る、というのも少し考えものかもしれない

自分はなにが許せないのか、の前に自分はなぜ怒っているのかを冷静に見つめるだけで次の行動は変わってくる。ああ、悲しかったんだな、と自分を見つめるだけで伝え方が変わってくる。


2.なぜそれで傷ついたか

つぎは、なぜそれでその感情になったのかを考えてみる。

いくつか焦点を分けてみる

例えば
○対象(人・組織)
○対象(行動)
○対象(内容)
ー誰のためなのか
ー伝え方
というように

(※それぞれ作用しあっているけれど、わかりやすいように分けています)


○対象(人・組織)
怒りの対象(今回は厚生労働省、政府)、それ自体に怒りを感じることはあまりないと思うが、「そいつが」発信していることに嫌悪を感じるのであれば、シンプルに嫌い(呆れ等含め)という感情があることは自覚しておきたい。

嫌いという感情は全く悪いものではない。これまでの関係と経験の結晶だから信用もできる。けれど、自分がその感情を持っていることは自覚しておいたほうがいい。「嫌いだから少しバイアスがかかっているかも」と。不具合があって「あいつまた!」と陰口を叩いたときに、親しい人が「それぼくのミスです」と打ち明けてきたら「あ、ちゃうねん」と気まずくなった経験が誰しもあるのではないだろうか。「嫌い」が「許せない」を、怒りを増幅してしまうことを心に留めておきたい。その感情は問題解決には向いていないと。

○対象(行動)
次に、その行動について。ここでは内容ではなく、その行動自体(今回であれば人権の動画を発信したこと)に何らかの感情を抱くのか。今回の場合は、きっと意図があったのだろう、誰かのために作ったのだろう。と推測できるから、ここに怒りを感じることは少ないのだと思う。

むしろこのタイミングにこういった方向性(人権を大切にしましょうという内容)の動画を発信したこと自体はむしろ評価されることかもしれない。(是非を語るつもりはなく、対比のために記しています)

○対象(内容)

・だれのために作ったか
→病院関係者(被害にあっている方たち)

・どういった意図か(推測)
→人権が守られていない事例(一部の保育園、タクシー)を見聞きして、その被害者たちを救おうと思った


まずちゃんと受け止めたいのは、この動画は医療関係者の方達にとっては救いなのかもしれないということ。この自粛期間に僕のところにも、保育園に預けるのを申し訳なく思っている、という相談があった。そんな人に僕は「申し訳なさなんて全く持たなくていい」と断言させてもらった。それがぼくたちの仕事で、それを受け入れられない保育園や保育士がいるのなら、それはあなたが悪いのではなく相手に余裕が無いのだと。これを伝えるときに、保育園も事情があるから等々言う必要はないと思っている。(複雑な事情がそれぞれあるが)まずは、その人たちを救うことが最優先なのだ。

その上で、「だからと言って、それ以外の人たちの人権を蔑ろにして良いというわけではない。」というところがある。どの立場の人間でも等しく人権がある。それは人権を考える時の大原則だ。

泣いている子の話だけ聞いて裁いてしまうようなことはしてはいけない。泣いている子を救うために周りを傷つけていいはずはない。相手や周りの話も聞いてきちんと情報を集めて対策を練って問題の解決に向かう。

今回の動画はそれを端折って大雑把に全校集会で発表してしまったということだ。「野球部が陸上部をいじめているという事例が発生しています。いじめられたら相談するように」と。

そりゃ「一括りにするなよ」となる。ふざけるな、と。


これは、決定的な想像力の欠如と配慮不足なのだ。


この動画に保育園やタクシー運転手を虐げるつもりがあったかといえば、おそらく無い。では、なぜ怒りがこみ上げるのか。

悪意が無いからこそ保育士の人権を軽視しているのが当たり前だと言われているように感じてしまうのだ。それはこれまで受けてきた扱い(低賃金・過酷労働など)が下地にあるからなのだろう。

そしていま、この動画で被害者として描かれている医療従事者と同様、命を削って、と言っても過言ではないくらい必死になって子どもたちの命を守っているから、それを全否定されたように感じてしまうのだ。ぼくたちの人権はどうなんだ、と。

3.自分はなにに怒っているのか。そして、なにを伝えたいのか。

いまの僕自身の現状をまず振り返ってみる。
きっと余裕はない。コロナ禍で自分も罹るかもしれないリスクと隣り合わせのなかで誇りを持ってこの仕事をしているけれど、その誇りもボロボロになりかけている。みんな頑張っているけれど、間違いなく僕も頑張っている。

比べるものではないけれど学童保育の仕事は保育士よりもきっと社会的地位は低い。だいたいバイトとか腰掛けだと思われているし、実際に正社員で支援員として働けている人は少ない。生活も裕福とは言えない。けれど、間違いなくいまの社会を支えている。それでいいと思ってこの仕事をしてきた。

ただ、やはり明確に「差」を突きつけられたら、辛いものはある。

あの動画がその社会での「差」を突きつける決定打となって傷ついた人たちがたしかにいたのだと思う。

この状況だから、怒っている。けれど、怒りの感情は怒るために消費されてさらなる怒りを求めていく。怒る対象を探し続けてしまう。その感情に飲み込まれてこの仕事を、自分が目指しているものをそんなもので壊したくないのだ。だから、昇華して伝える方法を考えたい。保育者として、ぼくはどう向き合うのか。

知らないことや想像力の欠如が罪なのではなく、そこで起こりうる差別や偏見が罪なのだから、その偏見や差別を食い止めるためになにができるかを考えられたら。

自分が同じようなことをしていないかと聞かれたら、やはりどれだけ気をつけても誰かを傷つけているのだと思う。だれも取りこぼさないように、なんて無理なのだと思う。

どうせ傷つけてしまうのなら気をつけるのは労力の無駄…と開き直ってしまいそうになるけれど、諦めたくはない。

自分が何かに傷ついて怒ることでまた誰かを傷つけてしまうのは悲しい。だからと言って怒りを封じ込めて傷ついたままでいることや、悲しみに蓋をしてこれからも傷つくかもしれないのに甘んじて受け入れることもしたくはない。

今回は動画を例に取り上げたけれど、どんな時でも怒りの感情を抱いたり批判したくなったときにはしっかりと物事を見つめていたい。その状況も、自分の感情も。

正しく怒るというのは、正しく伝えるということなんだと思う。代替案がなくてもいいから、ただ対立や破壊をしないために、伝えることなんだ。

怒りを「怒り」としてではなく自分の思いを伝える。たんたんと、これがぼくの怒りですよと。

傷ついたのなら「傷ついた」と伝えたい。嫉妬したなら「羨ましい」と伝えたい。裏切られたと思ったのなら「信用できなくなる」と伝えたい。間違っていることなら「これが正しい情報ですよ」と。怒りに支配されることなく伝えることは、自分の正しい感情を大切にすることなんだと思う。

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