気遣い (小説:原稿用紙約30枚)
一、
私の旧姓名は岩冠見美(いわかんみみ)。正人(まさと)と結婚するまで岩冠姓を二十五年間も使用していた。現在は砂尾(すなお)見美。夫婦仲は良いので、旧姓に戻ることはない。新旧の名前は偶然にも私の人生を表している。
現在の私は、人生の終盤にさしかかっている。夫と二人暮らしで鳥取の海を見渡せる山沿いに住む。家の前は家庭菜園、鶏小屋もあって、卵を思いだした時だけ産むチャボが三羽いる。玄関に雄の豆柴が一匹、居間にはセキセイインコが四羽。私たちは週に一度は夫婦で社交ダンスを楽しみ、老人会では読み聞かせのボランティアもしている。
私たちには娘が三人いるが皆嫁いだ。娘のうち二人は県内に、残りの一人は東京にいる。孫は総勢五人。お正月は夫側の親族も集まって大賑わいだ。
しかしその中に私の母、岩冠久子はいない。母だけが私の血縁者になるが疎遠だ。その母も今年で九十五歳になる。十数年前の脳こうそくの後遺症で右手右足にマヒがあるがそれ以外は元気だ。自宅からほど近い海沿いの老人施設に入所中。すぐ会える距離だが母は私との同居を今でも望んでいる。しかしそれは私次第。現在、私が母に対してすることは施設の入所の諸経費の支払いだけ。
母は肥満気味だったが、施設の規則正しい食生活のおかげで今では小さくしぼんでいる。しわしわの手足でレンタル歩行器に頼って施設内を徘徊する。母のヒステリックな甲高いあの声は、怒鳴る相手もいないのでとっくに枯れた。しわだらけの顔の中に埋め込まれた小さなあの目玉も私を威嚇できない。
二、
幼少期から現在に至るまで私の聴力は通常の半分しかない。だから補聴器を使っている。通常難聴といえば、単純に音を大きくすれば聞こえるタイプが多いが私の場合は違う。例えるなら英語が聞こえるが英語の内容が聞き取れない。つまり音は聞こえるが内容が理解できない感音性難聴だ。
母に言わせれば、呼べば振り向くので大丈夫だと思っていたという。学校の検診でも聞こえるかどうかのチェックだけ。聞き分けられているかどうかのチェックはなかった。そのために長らく感音性難聴を見逃されていた。
私自身も難聴の自覚がなかった。でも母の性格を知悉している現在、母は幼かった私の難聴を知らぬふりをしていたと思う。母は私が風邪をひいたら小児科に連れていき、学校で近視の指摘を受けたらすぐに眼鏡を作ってくれた。風邪をひくことは当たり前だし母も眼鏡をかけていた。また周囲に眼鏡をかける子供は多いので、恥ずかしくなかったのだろう。だが耳鼻科の通院はなかった。早くに受診してくれたらよかったと今でも思う。治らずとも難聴も個性の一つと割り切って、早くに補聴器を使わせてくれたらよかったのに。
私は片親ながら何不自由なく育てられた幸せな子どもだが、母からは難聴の娘は認められなかった。聞き返しをやり、聞き間違えばかりする私を恥ずかしがった。滑舌が悪く言葉が上手く話せない私をできるだけ目立たぬよう隅にいなさいと言った。何を言われても微笑んでいなさいとも。
聞こえなければ、何度でも聞き返しなさい、と教えてくれなかった。母なりにどうふるまえば幸せになるか考えて処世術を教えてくれたと信じたい。
先にも書いたが、私には父はいない。だから母が私のすべてだった。世界は私たち母子のものだった。他者の介入は一切なかった。当時の母はスーパーのパートをしており、夕食は職場の廃棄処分品、つまりその日の売れ残りの総菜や揚げ物を私に食べさせた。母は身なりに構わない人だった。店名ロゴのついたエプロンをつけたまま家にいた。私服はどういうわけか、細かい花模様が多かった。そういった生地を購入しては、おそろいの服やバッグを作ってくれた。私はびっしりとプリントされた細かい花模様が嫌で、無地のシャツを買ってほしいと訴えても無駄だった。
幼い私はどうして皆から笑われたりするのか理解できなかった。私は皆からぼんやり者と相手にされていなかった。時に級友の「つんぼ」 という嘲笑に耐えた。罵声の内容が理解できない。しかし、その場から逃げ出しても解決はしないのを知っていた。となれば微笑むしかない。すると皆はより強く罵声を浴びせる。時には前触れもなく両肩を強く揺すられ、髪や耳を引っ張られた。あれは何度呼びかけても反応しない私に怒ったのだろう。参観日も運動会も母は来てくれたが、周囲に反応せず、隅に一人でいる私を見て満足げに頷くだけだった。
この話は母に対する恨み節ではない。でも難聴がどういうことか皆に知ってもらえていたら、私の人生の前半分は変わっていたかもしれないと思うだけ。私のまわりにいるみんなが、一斉に同じ方向を向いたり、一斉に口をあけたり手を振ったりするので、知らないことがおきているとはわかる。歴代の先生に私に構う人はなかった。いつも一人でいる私は放置されていた。先生たちは乱暴なふるまいをする問題児にかかりきりだった。
小学校低学年の三年間は、はきはきとした声を出す女性の担任だったから聞き間違えはほぼなかった。授業中の問いかけにも答えることができた。しかし四年生の時は男性の担任になった。大柄の男性で声が低く、私にはただの唸り声のようにしか聞こえず、授業が理解できなかった。ゼロ点のテスト用紙を前に、母はもっと頭がよいはずだと怒った。母以外の大人たちは、気分にあわせて返事をする子どもだと思われていた。クラスは授業に集中できない問題児が多く、私は放っておかれた。
しかし、耳鼻科受診をと強硬に母に告げたのは、その四年生の担任だ。聞こえているのに耳が悪いと言われたと母が憤慨していた。同じセリフを耳鼻科の受付の人にも言った。私は周りの人の声は聞こえても、話の内容がわからなかった。しかし周りの人よりも遠くにいる母の声はいつでも聞こえて理解できていた。母の声は語尾がはっきりして、異様に甲高いのだ。
耳鼻科の医師は私を感音性難聴だと診断した。数年前に中耳炎に罹患していたはずだと語った。痛みを感じない滲出性中耳炎だったので、本人も母親も気づかなかったのだろうと。それで耳が悪いことを自覚せず大きくなったのだろうと。
鼓膜が正常そのもので学校の集団検診で異常なしで通るのはまれにある。しかしこの子の場合は聴力が落ちたまま、炎症自体が治癒してこうなったのだろうと。
子供には難しい話だったが、理解できた。その医師が補聴器を使わせるよう母に告げた。五十年以上も前の話なのに、母の態度も覚えている。母は不満そうに顔を半分そらして医師の説明を聞いていた。
「ナンチョウだなんて……そんなはずはありません」
強情に言い張っていた母。医師と看護師のあきれたような顔も思い浮かべることができる。結果的には医師の説得が通って私は感音性難聴用の高価な補聴器を買ってもらえた。しかし補聴器使用者であることを知るのは、医師と補聴器メーカーの人と私の母のみ。
私がはじめて補聴器を手にしたときの感動を覚えている。耳の穴のサイズにあわせたその小ささに驚いたものだ。それを耳に入れた時は、その冷たさに震えた。しかし同時に鮮明に聞こえてくるすべての音に私は驚く。大きく目を見開いて口も開けて初めて聞こえた音の洪水に耳を浸した。時計の音、クーラーの音、椅子のきしむ音、看護師さんのシューズの音、診察室の外の待合から赤ちゃんの泣き声まで聞こえた。医師と補聴器の業者さんはそんな私を笑顔で見つめてくれていた。しかし母はそれが目立ちすぎると文句を言った。耳の横で切りそろえていた私の髪でそれを隠してしまった。補聴器屋さんはスーツを着た若い男性だったが、母の仕草に悲しそうな顔をした。
それでも補聴器を使わせてもらえた。私の人生は聞き分け可能な音で満たされ一変した。しかし母から「補聴器を隠しておくこと」 と言い渡された。
「補聴器を使うほど、耳は悪くないはず」
私の髪をもっと伸ばすことも母にとっては必要なことだった。私は眼鏡なら見られてもよいが、補聴器を使うことは悪いことだと思い込んだ。補聴器を使う子どもは周囲では誰もいない。だからそれは悪いこと。その考えはなんと私が成人するまで続いた。私には相談相手はいず、母のいうことがすべてだった。
学校では、存在感ゼロの私はいつでも無視をされていた。私は髪を伸ばしてふんわりと二つに結び、決して耳の穴の中に補聴器がはさまっているのを知られないようにしていた。アメリカピンで耳周りの髪をとめるやり方はすべて母がしてくれた。中学生、高校生の時でも。
台風など風が強い日は、耳元でひゅうひゅうという雑音が入る。当時の補聴器は今よりも性能が悪かった。耳の穴と補聴器の間に少しでもすき間ができるとそれは耐え難い轟音にかわる。ぴゅうーぴゅうー、ぎーぎー、ぴいぴいぴいぴー……ハウリング音だ。
しかし頭痛が起きるぐらいのハウリングの轟音に巻き込まれていたとしても、補聴器がないよりは、あった方がよい。私は決して補聴器を手放さなかった。一度和式トイレの中で補聴器の電池を交換していたときに、手元が狂って床に落とした時は半泣きではいつくばって拾った。制服のスカートのすそが便器の水に濡れるのも厭わず、補聴器を探した。精密機械でもある補聴器を水の中や高い位置から落とすと、一瞬で使い物にならなくなる。そうするとこの世の音はすべて理解不能な曖昧なものになってしまう。幸い大丈夫だったが、それ以降私は立ったまま補聴器の電池交換はしない。補聴器は私の耳に代わるとても大事なものなのだ。
三、
高校生になると私の背丈は母を超えた。母は毎朝制服を着た私の真正面に背伸びをして立ち、私の目をみながら、横の髪を引っ張って耳を覆う。見られないようにしなさいねと母は言う。私は母を見おろしながらわかったと返事する。それ以外に返事のしようがない。私は補聴器を耳の穴に入れるところを母に見せないようにした。自室のデスクの一番下の引き出しに置いて出し入れした。
何度も書くが私には友だちがなかった。補聴器を隠すように躾けられた私に、どうして補聴器について話せる友だちができよう。年に一度は補聴器のメンテナンスがあってメーカーの担当の人が私の補聴器の内部の小さな部品を丁寧に掃除し、時には交換してくれる。どこにでも私に付き添う母はそういう業者には一切声をかけなかった。業者側は定期的に来るが、一言も話さない私たちを奇妙に感じていたはずだ。その人は時折私ではなく母に何かを言った。母はかぶりをふっていた。何を言っていたのかはわからない。私は補聴器をはずしてその人に預けていたので聞こえていない。そんな細かいシーンまで覚えているのに、補聴器をつけて学校へ行ったときや担任の反応は一切覚えがない。当時の私にとって母だけが親しく話せる人間だったので、家庭外の出来事は記憶する必要がなかったのだろうか。
私の母は私の難聴をすごく恥ずかしがっていた。私も幼かったが、母はもっと未熟で幼い人間だった。母にも友人はいなかった。その狭い世界の中で私を精一杯育てようとしていた。難聴でかわいそうだけど、難聴だと気づかれないように育ててくれた。そのせいで事情を知らぬ人々から態度が悪いと嫌われていた。私は間違って育てられていた。
補聴器は万能ではない。強風ではハウリングがひどく、またプールに入れない。マスクをした人間の前だと特に内容が聞き取れない。また集団で騒ぐ人がいると雑音の洪水になり、目当ての人間が話す言葉が理解できなくなる。だから学校生活でも理解できる授業は限られていた。私は聞こえても聞こえなくても微笑みを絶やさず、いじめをやり過ごそうとした。ノートや体操服、かさや時にはお金も盗られた。面前で学校へ来るなと言われても耐えた。歌いもせず、口を半開きにして歌うふりをしている私に向かって音楽の先生は「最低な生徒」 だと叱った。その声量豊かなソプラノの罵声は忘れられぬ。とてもよく聞こえたし未だに聞こえている。
私は学校であった嫌なことは一切母に話さなかった。話せば母は半狂乱になってヒステリーを起こし、ご飯を食べなくなり己の髪をむしって泣きわめき、仕事を欠勤してしまう。
「美見ちゃんは、耳がほんの少し悪いだけなのにああぁくやしいぃ」
母は私の保護者として学校側にいじめを訴えたり、かけあったりすることは一切なかった。人前に出て目立つことはしないものだと教えられていた。この世の中は難聴を排除するものだという諦念もあった。
友だちがいない分、読書と勉学に励んだので成績は常に上位だった。私は奨学金を得て、国立大学の医学部を目指した、模擬テストでは十分合格圏だった。その成績表を持参して例の耳鼻科医に喜んでもらおうと報告すると、彼は渋い顔をして難聴者には医師はムリだし、周りの看護師や患者が迷惑するからやめなさいと説得された。どうしても医療従事者になりたいのなら、臨床検査技師の資格を取りなさい、それならば勤まるだろうと言われた。
がっかりしたが、母は違った。なぜ医学部を目指すのかと責めた。確かに高給が望めるが忙しいので婚期を逃す、女の悦びは適齢期の結婚と出産そして子育てにあるという。どうしても大学に行きたいのだったら、教育学部に入って結婚が決まるまで学校の先生になるように強いた。まとはずれな指図に私は驚き「聴力がこれだけ悪いのに、何十人もの生徒を預かって教科を教えられる自信がない」 と断った。すると母はこういって嘆いた。
「美見ちゃんは劣等感が強い。ちょっと補聴器を使っているだけなのにどうして自己卑下するのか」
そこで初めて私は母の考えがおかしいことに気付いた。もちろん私は教育学部には行かなかった。昭和一桁生まれの母の世代では学校の先生になるのが女性にとってのエリートコースだと思われていたらしい。母の思考はその名残だろう。今ではこれも母の性格を思えば仕方がないと思っている。
四、
母のおかしさに本当に気付いたのは臨床検査技師の資格を得て市内の公立病院に勤務してからだ。就職試験の際、私は履歴書の健康欄に聴力のことを書かなかった。書くことの必要性を感じなかった。私は学生時代での試験問題で口頭試問は先生の声によってはゼロ点でも筆記試験はいつでも満点だった。
臨床実習の時も学生の間はお客さん扱いで、本当に使い物になるかどうかまでチェックしない。聴力の低さが問題になることは一切なかった。少し耳が悪いです、と一言いうだけですんだ。
しかし正規職員として忙しい職場に配属されると、新人であっても外部にはわからない。病棟からの電話連絡には即答必須、大きな緑色のマスクをかけた目だけしか見せぬ医師から廊下で呼び止められ、某の検査結果はあと何分ででるかの質問があると答えないといけない。肝心の質問が聞き取れず、私はあいまいに笑うだけだった。電話での会話もマスクをした人との会話も唇の動きが読み取れなくて会話が成立しない。もちろんマスクをしていても、語尾がはっきり聞こえる甲高い声をした看護師さんなどとは会話ができるが、全員がそうではない。これは想定外だった。
初出勤の三日後に、私は臨床検査局の上司に呼ばれた。私は局長から、院内のスタッフから私に対する苦情が来ている旨を知らされた。根本的な会話ができない新人がいて困るという苦情だ。私は愕然とした。今までのことは閉ざされた家庭の話、閉ざされた学校での話、いじめですら、相手は子ども、もしくは未成年の学生だったからそれですんだのだ。
しかし院内で働くということはそれではすまない。局長は定年前の女性で、足が少し悪く、肩をゆらしながら歩く女性だった。彼女は私に気遣いながら慎重に質問を重ねた。私は局長に質問されてはじめて聴力が悪いこと、補聴器を常時使用していることを話した。局長が大きな声を出して言った。
「岩冠さん。補聴器を使用するほど耳が悪かったのね。最初から教えてくれたらよかったのに。言わなかったのは就職に不利だとおもったからですか?」
「はい。母からは一切言わぬように躾けられていました。聞かれはしない限り、私は難聴の話を自分からしたことはないです」
「母? どうしてこの話にあなたの母親が出てくるの? 就職に不利だからではなく、お母さんから言われていたからですか?」
「そうです」
局長の不審気な顔は私の身体を熱く火照らせた。私は震えていた。私は初めて人前で泣いた。
「すみません……母も悪気はないのです。私は自分の耳がそんなに悪いとは思っていなかった。皆さんに迷惑をかけるなんて思わなかった。職場の電話がそんなに大事だと思わなかった……私はクビになりますか。電話はかけたことも、かけられたこともないのです。臨床検査技師としての仕事はできます。だけどそれ以外の電話での会話がそんなに大事だと思わなかった」
局長は大きな声で話しかけてくれた。
「……あなたは筆記試験では満点だったのよ。聴力検査はなかったしね。面接でも返答には問題なしだったのよ」
私はしゃくりあげた。
「面接では院長と局長がいらっしゃいました。私は面接官が女性でありますように、それと大きな声を出す人でありますように、マスクをしない人でありますようにと祈っておりました。補聴器の感度を最大限にしていました。これをするとハウリングがひどいのですが、それでも聞き取りやすくはなります。あの時は院長だけがマスクをされていたが、私への質問が一切なく本当に幸運でした」
局長は苦笑した。涙を流す私に大声で「わかりました」 と言った。
「ただ今から院内スタッフ全員にあなたの難聴を周知徹底します、よろしいですか」
「じゃあ、これからも勤務させてもらえるのでしょうか」
「一緒に働きましょう」
「ありがとうございます」
「私の声はどう? 聞こえやすい?」
「局長の声はよくとおってきれいです」
「三十年以上、コーラス部に在籍しているの。だから声量には自信があるわ」
以来、私は同僚たちや部外者、患者さんにも堂々と聞き返せるようになった。聞こえないまま曖昧な笑顔を浮かべると迷惑をかけるのを理解したからだ。補聴器も隠さないようになった。横の髪を短く切り、全体にショートヘアにした。そして初対面の人にも補聴器使用者ですと言えるようになった。自分から笑顔で話しかけるようになった。私の人生が変わった。
母はそんな私を叱った。
「補聴器が丸見えだからその髪型はやめなさい。難聴だとわかると嫁の貰い手がなくなるかもしれない。だから隠しなさい。あなたのためよ」
それが母の言い分で、私はその言葉で本当に覚醒した。私は母に言い返した。
「お母さんのその態度が間違いのもとだった。私のためにならないことだった。いじめられるもとだった。私がヘンな子だといわれてきた原因だ。でも、私は大人になった。補聴器を使っている人は眼鏡や車いすの使用者と同様でたくさんいる。病院に勤務しているとそれがよくわかる。補聴器を使うことはめずらしいことでも、恥ずかしいことでもなんでもない」
私は母の思考を改めさせることはできず、家庭内でも母との会話は最低限になった。母は反抗期だと不平を言いながらも細かい花柄の上着やパンツを作り私に着るよう強要した。私は働くようになってから初めて自分の服と食べ物を自分の好みで買えるようになった。
私は与えられた仕事を懸命にこなした。そうしているうちに院内の理学療法士から交際の申し出を受けた。彼も片耳だけの補聴器使用者で親近感を抱いてくれたらしい。私は両耳の補聴器使用者だし申し訳ないという考えを持った。何度も聞き返しをする私と一緒だと恥ずかしいでしょう、と交際を断った。
私は難聴者だと開示をしていてもまだ劣等感があった。彼はそんな私に驚きつつも時間をかけて私の心をほぐしてくれた。それが砂尾正人だ。私は彼と結婚して砂尾美見になった。この時の結婚でも母は揉め事を起こした。正人の仕事が気に入らなかったのだ。
「美見ちゃん、せっかく病院に勤めているのに、どうしてお医者さんと結婚しないの? お医者さんと結婚したらお母さんも美見ちゃんもラクして暮らせるのに、理学療法士ってリハビリの手伝いでしょ? 医師よりもずっとお給料が低いじゃないの? しかもその人は耳が悪いのでしょう? そんな人と暮らすの?」
悪気は一切ない。母はお嫁に行くからには夫から生活に不自由なく養ってもらうだけの財力が必要だと考える人間だ。その上何ら健康に問題ない人間を娘婿にと望む。母は娘である私の将来を真剣に案じていた。どこで知ったのか、本人不在でも結婚相手を案内します、という結婚相談所に二十万円もの大金を支払って、見知らぬ二十歳年上の医師の見合い用の釣り書をもらってきた。私は断った。母は返金がないのにとヒステリーを起こしたが放っておいた。それが一番良い方法だとわかってきたから。
五、
母は結婚式直前まで、正人と結婚するなら母娘の縁を切るとまでいった。しかし、いざ結婚したら実家から徒歩二十分の私たちのアパートの新居に入り浸りになった。留守の間に合鍵で台所に入り、大量の賞味期限切れのパンを食卓に置いて待っていた。半額奉仕のシールがついた空揚げやコロッケもある。そして孫はいつできるのかと聞く。
正人はそんな母が苦手だ。合鍵を返すようにとはっきりと言い渡した時、母はこれまでにもないひどいヒステリーを起こした。
正人は私の顔をまっすぐ見て「どっちを取るのか」 と聞く。その隣で母は泣きわめいて「親不孝者」 と私を罵る。
「そんなに大きく育ったのは誰のおかげ? 臨床検査技師になれたのは誰のおかげ? 私が一生懸命働いたからよ。私が美見ちゃんを育てたのよ。それを忘れて男に走って、ああ、なんという恩知らずな娘だろう」
私は母をなだめながら実家に連れて帰る。母はパンを片端からかじりつつ私に言う。
「今すぐにでも離婚しなさい。美見ちゃんが妊娠したら私と同じように捨てられる。いや、捨てられたほうがいいかも。その子供を二人で育てよう。きっといい子に育つわよ」
離婚? 妊娠? 母と子供を育てる? 私は母の思考に驚き、ため息をつく。母が私の不幸を願うなんて。それが母の望みだなんて。私には母の性根を変えることはできない。その代わりに私は今まで母に教えられたように曖昧に笑って頷く。すると母も安心するのか機嫌が直る。
母が寝着いた後、実家の電気を消して戸締りをして新居に戻る。この繰り返しだった。私たちは母が合鍵を返さなかったので新居の鍵を変更した。それを知った母からの半狂乱になった電話をもらったのも思い出だ。私は正人に気遣いながら月に一度は実家に帰って一人暮らしになった母の様子を見る。やがて妊娠、出産。
孫が生まれた時も母の介入しようとする意欲はひどかったが、名づけも世話もすべて母の思い通りにならぬとわかるとあきらめがついたようだ。私は母の手作りの細かい花柄の生地の乳児服やおむつカバーも使わず捨てた。手作り品もスーパーの半額奉仕のシールがついたままの食物も持ってくるなと言った。
私は母の様子を見るために実家に戻っては、あいまいな笑みを浮かべて「じゃあ、またね」 と手を振る娘だ。時にはまだ小さかった子でもたちを連れて。
母は何もわからぬ子どもに頬ずりをしながら、「早く大きくなって医学部に行きなさい。そして私を楽にしてくれ」 という。
母にとっては私という娘が人生のすべてだろう。娘婿の正人はいらない。私と赤ちゃんがいればよいという感じだ。母は正人にも両親がいるということが全くわかっていない。子どもたちは大きくなるにつれ、母に寄り付かなくなる。
「おばあちゃんはなんでも決めつけるのよ。女の子は花柄の服が一番いい、そんなミニスカートはダメって。医学部に行けるように勉強しなさいっていう。おばあちゃんは食べて寝てばかりのくせに」
そのうち母は、ある宗教を信仰するようになる。私と孫と一緒に暮らすために祈祷をしてもらっているという。私はその話を聞いてもあいまいな笑みを浮かべて、「そうね」 という。そして母との距離をより広げる。
母は職場で脳こうそくを起こして倒れた。後遺症は軽いマヒですんだが、これをきっかけに施設に入ってもらった。私たち夫婦は母と同居できないのは明白だ。入所に抵抗する母に対して「そのうちに、一緒に暮らそう。だからがんばってリハビリしてね」 となだめた。こうすると母は「親不幸者」 といいながらも引っ込んでくれる。
鳥取に古家を購入して私たちは引っ越す。施設にいる母には言わない。そうして月日が流れ現在にいたる。
私は朝に夜にもう新居とも言えぬ自宅から見える海を眺める。海は凪いでも荒れても美しい。海が広いのは変わらない。母も変わらなかった。でも私は一生の流れを変えた。母の呪縛は自分で解いた。正人と結婚して母と離れて暮らすという選択は正しかった。
難聴は恥ずかしいことでもなんでもなかった。母の私に対する庇護は間違っていたが、でもこの年になったらそれもどうでもよい。このまま距離を置くことは私たち母娘にとっては大事なことだ。
同居してくれぬ恩知らずの娘だと、母は面会に来るたびに不自由な口を使って私を罵る。私はあいまいな笑みを浮かべて「そうね」 と言う。母が死ぬまでこの会話は続くだろう。それが私の母に対する気遣いだ。 了