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猫草日記


✳︎

どんなに尽くしても、きっとあなたは私の元を去ってゆく。
けれど私はけっしてそれをひどいなんて思わない。
だってあなたは猫だから。

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2004425
婚約を破棄した勢いで、上京してから勤めていた会社を辞めて、福岡へ戻ってきた。
東京とは少し匂いが違う。
母がスズキの軽に乗って空港に迎えに来てくれた。
久しぶりにみる母の目元はこの前あったときよりも暗い色をしていて、こんなかたちで帰ってきたことに申し訳さを感じた。

私がごめんねってつぶやくと、
母は、ばかねえ。いいのよ。と返してくれた。

ぶっきらぼうな言葉だったけれど、いつもはお喋りで知りたがりな母が、私を無条件で受け入れてくれているような気がした。
少し救われた。お母さん、ありがとう。

私が家を出てからリフォームした実家は、リビングの観葉植物を含めてなんとなく全てが他人行儀な気がする。
午後は1階のリビングにある横長のソファに横たわった。
寝ようとしていたのに、ベランダからみゃあみゃあと声が聞こえた。
鬱陶しくて窓を開けて庭を見ると、1匹の猫がないていた。
近くのローソンに行って銀のスプーンを買ってあげた。
私は、その猫に勝手にむぎという名前をつけた。

2004426
昼頃、今日もむぎはにゃあにゃあとうちへやってきた。

むぎのことを母親に話をすると、どうやら迷い猫であるらしく、両親にも心当たりがなかった。誰かに飼われていたのだろうか。

むぎは銀のスプーンを食べると、満足そうに伸びをして、ベランダの柵を軟体動物のようにくぐり抜けて帰っていった。

帰ってきた父にもむぎのことを話すと、病院の検査や避妊治療代を出すと言ってくれた。(おとうさんナイス!)
傷心の私の気晴らしになるだろうと考えてくれたのかな。
こんな風に気を遣って貰えるのなら、もっと小さい頃にわがままを言っておけばよかったかも。

200451
むぎは最近毎日「銀のスプーン」を食べにくる。年齢は見た目ではわからないけど、そんなに年寄りじゃないとは思う。

今度むぎを病院に連れていくことにした。
誰かに飼われていたとしても、野良猫をやっている間に病気をもらっている
かもしれないし。
それに一応警察とかに届けをだして、飼い主が探していたらわかるようにしないといけない。

200453
ホームセンターに行って猫草を買ってきた。
今度むぎがきたときに、食べさせてあげるために。
あと、むぎを病院に連れていけるように、ケージも買っておいた。

せっかくなので、この日記を猫草日記と名付けることにした。
日記に名前なんか必要ないけど、むぎのことしか書いてないから(笑)

200456
今日ようやくむぎを病院に連れて行くことに成功した。
病気はもってなさそうとのこと。(むぎよかったね!)
ご褒美に、銀のスプーンと猫草をあげた。

獣医さんから、去勢についての話があった。
去勢手術をするとガンになるリスクを下げられるらしい。
お母さんは、ちゃんと飼うならしたほうがいいって思っているみたい。

むぎは長生きしたい?赤ちゃんは欲しいのかな?
わたしはどっちもあんまりだな。

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次の日から、むぎは二度と家にやってはこなかった。
私はもうむぎが戻ってこないことを半ば直感的に理解していた。
私にとってこの出来事は初めてのことではなかった。
むぎは自らの選択によって、私の元を去ったのだ。

私はダイニングチェアに座って、誰も喰むことのなくなった猫草を眺めていた。
猫草もどこか寂しさを感じているのだろうか。
いや、もしかしたらこれからどこまで自分の葉を伸ばそうかという思わぬ悩みに、喜びを感じているのかもしれない。

空調の水の音が、ぽたぽたと鬱陶しい。

ソファに座り込むと、溜め込んだ思いを手放すように涙が流れた。
体の力みがじんわり溶けてゆく感じが心地よかった。
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それは自力では醒めることのできない夢だった。

私は一人プールにいる。
裸だったのか、水着を着ていたかどうかは覚えていない。
ただ、これが夢だと気が付いた瞬間に、足の裏に足場の白いタイルの冷たさを感じたのを覚えている。
水面はエメラルドグリーンの色が美しい。ゆらゆらと緩やかな波を打ちながら、窓の日差しを天井にに反射させ、虹色の流線形を描いていた。
壁面は床と同じ正方形の白いタイルで覆われていて、左右の手前と奥にそれぞれ柱がある。柱の向こうを見ると、暗い影に覆われて、その先が見えない。

何もすることがなかったのでとりあえず泳ぐことにした。
疲れたら柱につかまって休んで、影に覆われた奥に何があるのか見たくなったのだ。
エメラルドカラーの水面に触れると、水の冷たさが肌に沁みとおったが、体の熱が膜のように私を包み、すぐに慣れた。

クロールで水をかきわけ進んでいった。
思ったよりも柱までの距離は遠くなく、柱の奥にも簡単にたどり着けそうだと思ったが、いくら泳ぎ続けても、影の先に近づくことができなかった。

私はその事実(?)を無視して泳ぎ続けた。
しばらく泳ぎ続けてると私は心の中でこう唱えていた。

”どんなに私が尽くしても、きっとあなたは私の元を去ってゆく。 
けれど私はけっしてそれをひどいなんて思わない。
だってあなたは猫だから。”
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夢が途切れ、眠りから放り出された。
私はむくりとソファから上体を起こし、背中の汗を感じながら、虚な瞳で窓に映る雨を眺めていた。

そこからくるっと軽業みたいに起き上がって、ポーチに手を伸ばした。
奥に埋もれてた爪切りを取り出して、伸びた爪を切って、マニキュアを塗り始めた。美容院の当日予約をして、洗面台へと駆けていく。

躰が不思議と軽い。

私は心の中でこう唱えた。

”私はあなたの帰りを待ってます。いつか帰ってきたあなたを、100%の私で抱きしめられるように。たとえあなたと私が何万光年と離れていて、再び出会うのに、何百年の月日が経とうとも。”

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