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夏が終わる pt.1

2年前、日本で安楽死の合法化が閣議決定された。

アメリカやヨーロッパの若者を中心にした"Own Lives Own Death"(生きることと死ぬことを自ら手の中に)"に端を発し、全ての人々に対して平等に生存権と「自己の生を終わらせる権利」を認めることが、新たな人権のスタンダードとされたことが背景にあった。この問題には国内外問わず、世論においては激論の数々がわき起こった。宗教上の論争や運動も同時に勃発し、時には暴動や暴力的な抗議活動も沸き起こった。しかし、運動は勢いを失うどころか、日を追うごとに拡大していった。先進国の多くが、肥大化していった自国を運営していくことに疲弊していた。中国ですら、その波に流され国民のデモ活動が連日盛んにおこなわれるにまで至った。日本も多分に漏れず、上述の運動や、少子高齢化に基づく若者の経済負担や高齢者自信の生活の負担が問題化していることも重なり、法案の可決をマニュフェストに掲げた政党が国会での過半数を占めた。議員同士による揉みくちゃの会議の中で、先進国の6番目に成人した全ての国民に対しての自由意志安楽死が合法化された。


ある夏の日のことであった。


午後、仕事から帰宅するとInstagramにダイレクトメッセージが届いていた。メッセージを見ると、それは結婚式の招待を伝える内容だった。送られてきた先を確認すると、僕の目はぎょろりと丸くなり、ポロシャツには鈍く重い汗の粒が染み込んでいくのを感じた。一週間後、僕はキャブルカー(公道を走る自動運転車)を捕まえて登録していた式場の住所に走らせた。口の中に、砂利の混ざった苦い泥のようなものを感じた。


式場はこじんまりとした、それでいて品のいいものだった。白い外壁の3階建ての屋敷を貸し切り、パーティが開かれていた。入り口付近の庭園に30人ほどの参加者が集まり、音楽隊が心地の良いメロディを奏でていた。歌自慢を名乗る若い男がステージに立ちながら、それほどでもない歌を歌っていたが、周囲の人間は新郎新婦の祝福ついでに彼を持て囃した。

僕は新郎Aと新婦Cの2人に挨拶に向かった。僕はこの美しい新郎新婦をよく知っていた。彼らは僕の幼馴染であり親友であった。僕ら3人は中学時代まではいつでも一緒にいる仲だったが、高校へ進学すると、次第にフェイドアウトしていった。AとCの2人は偶然同じ大学へ進学し再開した。そこで彼らは恋愛関係に発展していった。僕は2人の親友として祝福するよう心がけた。

式が終わった1ヶ月後、安楽死によって2人はこの世を去った。僕はそのことをTVのニュースで知った。報道によると、遺書らしきものは見つからず、2人のSNSのアカウントからもそれらしき内容は見られなかった。お互いの親族は2人の決断について、何も知らされていなかった。僕は残念そうにしかめた顔をする男性アナウンサーを見ていた。その後アナウンサーはこの出来事についての私見のようなものを述べた後、捕捉するように、安楽死が合法化された後、社会的にいくつかのプラスの変化が見られたことについて話し始めた。社会医療費が軽減され、20〜30代の世代の経済負担感が3割ほど減ったというデータも出した。また、安楽死前のカウンセリングを初めとした行政・民間のサポートにより安楽死を除く自殺の割合は2.4ポイント減少したことを伝えた。また、こうした事例は安楽死という手段を踏まえずとも起こりうることであり、全体から見ればごく一部の、若者の些細な過ちによる事故のようなものであったということを、視聴者の感情になるべく触れないように柔らかい口調でさりげなく伝えた。

TVのスイッチを消した。何もかもがどうでも良くなってしまってソファに寝転んだ。暫くしてやるせなくなってウィスキーを飲んで少し泣いた。涙が枯れないうちに僕の意識はまどろみの中に流された。

これはのちにわかったことだが、Cは若年性のアルツハイマー型認知症に侵されていた。20歳になった年に、彼女は目眩と同時に気を失い病院へ搬送された。それからは急速に彼女の認知は衰えていき、通常の社会生活に支障をしだすようになった。医師の励ましを込めた発言とは裏腹に、自らの認知が自分の手から離れていくことに対して戸惑い、うつ病にも似た症状にも悩まされていった。僕と最後にあった時の彼女は、認知機能という観点からみれば既に長時間の緊張を要する作業は不可能に近い状態であり、あの結婚式を無事に終えたこと奇跡といっていいものであった。彼女の症状が進む中で、AとCはどのような会話がなされたのかについてもうすでに知る術は残されてはいない。しかし、AはCに通常の恋愛感情を越えたものを抱いていたように思える。僕がなぜこの一連の出来事を認知していなかったかというと、僕は僕で青春時代の長い時間を引きこもって生活をしており、ついようやっと社会にでたばかりであった。10年間ほど家にとじ込もり、蓋を開けてみたら取返しのつかないことになっていた。僕は本当に為す術なく、ただ事実を聞かされることしかできなかった。

報道があった数日後、僕はふと、もし彼らが生きて幸せな人生を送ることができたとしたらどうだったのだろうかと考え込む時間が増えていった。一種の現実逃避なのかもしれないが、僕の持つ限られた想像力が一気にその点にフォーカスされ、気が付けば、想像の世界の中で彼らが生きていると思い込む時間のほうが増えていった。挙句何を思ったか、私は二人に手紙を書いてみようと思い立った。

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