ヤングドーナツを「あれ…?」と思った瞬間から”旅”が始まる
幼い頃のヤングドーナツは、神から授かった至高の食べ物であった。
とっても嬉しい四個入り。
しっかりとした甘み。まぶされた砂糖がしゃりしゃりとして、しっとりとした生地とシナジーを生み出す。
あまたある駄菓子の中で、際立つ甘みは幼い頃の我々にとって『駄』などでは決してなかった。
きっとこの世界には、ヤングドーナツに救われた春も、夏も、秋も、冬もあると思う。”児童たちの世界を救ってきた最高のヒーロー”、そんな言葉が言い過ぎでないくらいにヤングドーナツの水準は高かったのだ。
そんな感動を、もう一度味わいたい。
34歳の私は、先日久しぶりにこの至福を味わおうと軒先で売っていたヤングドーナツを手にし、購入し、そして食べた。
そうして。
食べた時に気づいてしまった。
駄菓子だ。
あれだけ至高だと思っていた味が、駄菓子だったのだ。
味の変容もひょっとすれば企業側の何らかであるかもしれない。
けれど、これはどちらかというと信じていた神様が偶像でしかないと気づいてしまったというか。
ひょっとすると私は”大人”になってしまったのかもしれない。
駄菓子を正当に評価する物差しを手に入れてしまったのだろう。
なんて退屈な余生。
ヤングドーナツを駄菓子だと感じてしまうような感性なんて。
だけど。
だからこそ、声を大にして言いたい。
私は、きっと退屈と引き換えに新しい武器を手に入れたのだ、と。
今、この言葉を紡ぐとき、原動力の感情は、あの頃と変わってしまった想いの強さだったりする。
つまり、ヤングドーナツを素直に嗜好品として美味しいと思う感性のままではこの記事は生まれなかった。
失うものがあった時。
そして失ったものに気づいた時。
人はまた一つ大人になり、そしてその気づきをこれからの糧に変えることができる。
世界はまだまだ続く。
私は、そうしてまた一つ大きな武器を手に入れて人生という名の旅を続けてゆく。