槇原敬之『CLASS OF 89』の”どうして君は僕のことを追い越していったの?”というフレーズの強度
槇原敬之の歌は詞が本当に凄い。
時折「文学なのかな。」と思う表現技法が出てきて、思わず笑ってしまう。
小学生の頃、槇原敬之『もう恋なんてしない』の”いつもより眺めがいい左に少し戸惑ってるよ”という歌詞が分からなかった。
それを聞いた母親は「車の助手席に今はいないってことちゃう」と即座に解説。
感心すると共に、この速度は実体験からでないと出ないと悟った。
母は、きっと恋をしていたのだな、と。
(すごい角刈り。)
あと、『No.1』の歌詞も、多幸感に溢れていて大好きだ。
特に"夕暮れ僕の街にはチョコレート工場の匂いがする"が歌詞として白眉。
なんだ、その街。
小説か。小説の一節か。
さらに『No.1』は"いつかおいであの河原へ自転車で連れていくよ"と続くのだが、なんて見たことないのに見たことあるように思わせる歌詞なんだろう、という情景を想起させる。
本当に傑作。
(色合いがビビッドすぎる)
あとは『モンタージュ』の歌詞も大好きだ。
特に1番Aメロラストの"ひとめみたとき 僕は生まれて初めて 自分の耳が赤くなっていく 音を聞いた"が恋の始まりをなんて的確に説明してるんだ、と感動してしまう。
詩の良さ。爆発。
舞台のタイトルとかでも通じてしまいそうじゃないか。
そうか、恋をすると耳があからんでいくものなのだな。
そして、B面曲でメジャーではないのだが『CLASS OF 89』も間違いなくその一つ。
今回は、この曲を特筆したい。
https://www.youtube.com/watch?v=RgdmFmZkn4I
彼の作品は特に初期などは切なさを想起させる作品が多数あり、時にそれは片思いとして、時にそれは二人の別れとして表現されるわけだが、この曲は、まさにそのど真ん中をいくような切ないバラードになっている。
特に、サビのフレーズ”どうして君は僕のことを追い越していったの?”には、恋を乗り越えられていない主人公の様子が描かれ、その弱さが付き合っていた当時との表現と比較され、センチメンタルを深化させる。
取り残された自分。もう新しいところへ向かうかつての恋人。
本当に歌詞のワンフレーズなのだろうか。
やはり、この曲は歌詞の対比に光るものがある。
まず”ちらかった部屋でジャンクフード片手に手紙を読んでるそんな僕は”という俗っぽくて未練たらしい部分がBメロで歌われる。ジャンクフードというのが、「ああ、わかるな」という共感性や「ああ、そういうメンタルの人なんだ」という聞き手への理解に繋がって、サビの”どうして君は〜”へと連鎖されていく。
それに対して付き合っていた当時の美しい情景が描かれるわけだが、その描かれ方が”この街の池にはすの葉がひらく夏の星座を受け止めるように”という美麗な句なのである。
私は、初めて聞いた時「え?」と思った。聞き間違いではないか、と。
いやいや、である。いやいや、こんなフレーズを歌詞の一節に持って来ないでほしいと。
そこまでの言葉を並べられたら、それは歌詞ではなく『詩』なのだ。『現代詩』。歌のフレーズで出てきますか、はすの葉が夏の星座を受け止めるように開く、なんて。
更に”この街〜”の歌詞は”それはまるでパラボラのようで見えないものを信じることを教える”と続く。
いやいや嘘だろ、と思った。
馬鹿な、と驚きのけぞった。
こんなホップ・ステップ・ワープのような三段跳びを歌詞のワンフレーズで使用するなんて。
はすの葉からパラボラアンテナへと飛躍する様。なんと文学的なのだろう。聞いているものの視点が平面から空間へと放り込まれるような。
それでもまだ「はすの葉→パラボラアンテナ」までの想起なら、まだギリギリ分かる。
そこから「パラボラアンテナ→見えないものを信じることを教える」への跳躍がえげつなすぎる!
どう発想をこねくり回したら、その連想ゲームを思いつくのだろうか。
何よりみなさんに伝えたいのが、これが歌詞のワンフレーズという事実なのだ。小説でも戯曲でもない。
また、”ジャンクフード片手に”食べるぼくと、”はすの葉が〜”という感受性を持ち合わせている僕が、同じ人物だというのも非常に趣深い。
この対比には人間の多面性(にしては叙情を受け取るアンテナが敏感すぎるが)が現れていると思う。
文字を紡ぐとすれば、このような表現を使いたいと羨ましくなる言葉の列挙。シンガーソングライターの域を越えている。
このような歌詞が書ける才能を持つ存在だと槇原敬之が、そこまで世間で認知されていないことが歯痒い。本当、間違いなく才能の、それ、なのだ。
奏でられる詩は、切なくて苦しくて、仕方ない。
みなさんも是非、槇原敬之の歌詞の世界を堪能していただきたい。
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