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読書ノート 「マニ教」 青木健

 「キリスト教がもっとも恐れた謎の世界宗教の全貌。世界初の包括的入門書。ゾロアスター・イエス・仏陀の思想を綜合し、古代ローマ帝国から明代中国まで東西両世界に流布しながら今や完全に消失した「第4の世界宗教」。「この世」を悪の創造とし全否定する厭世的かつ魅力的なその思想の全貌を、イラク・イラン、中央アジア、北アフリカ、ヨーロッパ、中国に亘りあまねく紹介する世界初の試み」(講談社選書メチエ)

 おもしろい。人工宗教、教祖マーニー・ハイイェーがすべてを作り上げた宗教、マニ教。マーニーは今なら新興宗教の経営者である。ビジネスマインドに富み、かつ神秘体験を持つ稀有の人物。ここで思うのは、その教義・仕組みを完璧に作りすぎ、他人が入り込む余地を作らなかったことが、永続しなかった原因ではなかろうか。人は自分が関与できないとなると、急速に興味を失うものだ。


 天使タウムの啓示により、ユダヤ・キリスト教系新興集団であるエルカサイ教団を離脱する決心をしたマーニー。天使タウムが自分の化身・ドッペルゲンガーという認識があったのだろうか。ドラマ「VIVANT」の主人公、堺雅人演じる乃木優介の分身みたいなもの。ストレスが極地に達するとき、人は得てして分身を生み出す。


 しかしここからが、策士マーニーの周到なところ。「直接の先行者であるイエス」を後ろ盾にし、「自分がこのように豪華な顔ぶれの預言者の『最後の完成者』の位置を占めるために必要な予防措置を講じている。もしかしてマーニーの死後に何者かが現れて『マーニーの使徒』を詐称したら、マーニーの福音は容易に覆って─良くても潤色されて─しまうではないか。誰あろうマーニー本人がイエスに対してこれをやっている以上、その危険性は本人がいちばん承知していた。そこでマーニーは、『ザラスシュトラ(ゾロアスター)、仏陀、イエスの三人を継ぐ諸預言者の封印(ハータム・ル・アンビヤー)』の称号を名乗った(日本語で「印璽」「封印」)。すなわち、人類史の原初から連綿と続く預言者の連鎖はマーニーを最後に打ち止めとなり、マーニーをもって封印されるという理想である。これで、人類の救済史の上でのマーニーの立場は至高のものにまで高められた」。そんなにうまくはいかないでしょ、と言いたくなる。思った通り、マーニー死後350年後、彼の封印をそっくりそのまま真似をして、全世界を覆う宗教、それも夾雑物のない、純粋度の高い神との関係を構築したムハンマドによって掬い取られてしまう。


 マーニーの性格として、勤労嫌いがある。自身が教団のルールで耕作をしなければならないことを、「耕作は植物の中の光の要素を破壊する」といちゃもんをつけてサボっていた。マニ教が後年、主として商業民の間に流布していくのも、もとはこの「農業嫌い、耕作嫌い、体動かすのめんどくさい」マーニーの性格に由来する。右足が不自由であった、親父であるパティークが思慮浅く、軽率な性格であったことも人格形成に影響しているのだろう。


 宣教を始めた頃のマーニーは「踵の高い靴を履き、この世のものとは思えない外見の華麗な色彩(青色?)のマントを羽織っていた。手には硬い黒檀製の杖を持ち、左脇にはバビロニアの書物を抱えていた」。かなり洒落たカラフルな服装を好んだことが窺える。

「ディティールにばかり気を取られて本筋がさっぱりわからない神話」(へニンク)と酷評された聖典。細部に拘泥した神話を作り上げた。この評は内省過剰で神経質、それでいて大局的な手際が悪かったりするマーニーの特徴をよく捉えている。

 しかし彼が作った「われわれはどこから来たか?」という問いかけから発する物語は、不気味なほどの正確さで当時の人々の神経に触れ、古代末期という時代のノイローゼを映し出し、「ついに世界と人生の奥深い意味を告知する人物が出現した」との感懐を抱かせた。


 宇宙論としてはこんな感じ。

 時間の神の時代は安泰、南には悪の王がいた。悪の王は光の王国の存在に気が付き、そこへの侵入を企てることから宇宙が動き出す。時間の神は生命の母に呼びかけ(生殖はマニ教では禁忌なので)、最初の人間を作った。ちなみに最初の人間と時間の神は一心同体とされる。

 最初の人間は五つの要素(エーテル・風・光・水・火)で武装し冥界の群生に突進するが、冥界側も同様の5つの要素で迎え撃ち、あっけなく敗れ去る。この敗北によって、光の諸要素が暗黒の物質の中に囚われ、精神が物質に捕囚された状況が出現した。以後の神聖史は時間の神が捕囚された光の要素をなんとか放出し、冥界の勢力を打倒する宇宙的ドラマとして展開する。

 負けて冥界にいた最初の人間オフルマズドは、生ける精神・ミフル神生命の母によって救出される。ミフルと母は悪魔を幾人か捉え、それらから宇宙を創造し、そこに他の悪魔たちを閉じ込めた。であるからして現在の宇宙は悪魔の要素から成り立っているらしい。何人かの悪魔から今度は太陽と月と光の柱を作り、閉じ込められている光の要素の帰還回路を作った。続いて風・水・火を創造し完了した。

 時間の神は第三の使者を作る。第三の使者は生ける母とミフル神がしなかった、「悪魔を欲情させるために全裸になり、光の要素を射精・流産させ」、植物・動物・怪獣・竜などを生み出す。悪魔も反撃に転じ、二人の悪魔からアダムとイブを誕生させる。アダムとイブには暗黒の物質から構成される肉体の再生産を促す生殖を渇望するプログラムが組み込まれているので、ここから光の要素は脱出させるのは至難の業である。こうして、人類の祖はきわめて呪われた形で誕生した。ミフル神は「叡智の世界の主(光のイエス)」を呼び出し、アダムへの啓示を代行してもらう。アダムは光の王国の記憶を蘇らせるが、イブは性欲に負けてカインとアベルを生む。こうして人間は無限に繁殖を繰り返し、人間世界に次々と預言者を送り込むことが必要となった。セト、ノア、アブラハム、シェーム、エノシュ、二コテオス、エノク、ザラスシュトラ、仏陀、イエスと来て、最後がマーニーということで、神聖史に人類史が接続される。


 特筆すべき点として、マーニーは新しい文字(言語)を考案した。すなわち、アラム文字から独自のマーニー文字を開発し、以後のマーニー教文献は基本的にこの文字で記されることとなった。これは、それまで子音のみの表記だったイラン語書写に母音表記も可能にし、その上面倒なロゴグラム、一文字多音、史的表記を廃止させるという革命的変化をもたらした。今日、中世イラン語の概要が判明するのは、古色蒼然とした子音表記のゾロアスター教文献によってではなく、このマーニー文字を用いたマーニー教文献によってである。この発明一つをとってみても、マーニーは世界文化史上に不朽の名を遺すだけの業績を上げている。


 マニ教の倫理として、①折衝・暴力の禁止、②自殺の禁止、③肉食の否定、④飲酒の否定、⑤性交の禁止、⑥商業以外のあらゆる生業の禁止、⑦メロン、キュウリ、ブドウの聖餐、⑧讃歌の朗唱、⑨真理の伝達。いやいやこれでは生きていけないのでは、ということで、マーニーは人間を大きく三種類に分けた。「神々の教え人」「異教徒」「一般信徒」とし、この厳しい戒律は「神々の教え人」にのみ課されることとし、一般信徒の戒律は緩め、その代わりに聖職者をお布施によって養うことで功徳を積むと定めた。


 マニ教では人は死ぬと墓を作らず簡素に埋められる。マニ教にとっては、やっと脱ぎ捨てた暗黒の衣服である肉体を埋めた場所などどうでもいいのである。聖職者の魂は自己のドッペルゲンガーである乙女に導かれながら最初の人間であるオフルマズドの管理する天国に行く。異教徒の魂は地獄に行くとする。で、一般信徒の魂は輪廻する。転生した先がメロンなら、聖職者に食べられ、一足飛びに天国へ帰還できるかもしれないのである。


 マニ教とグノーシス主義との関係については、ハンス・ヨナスが研究している。ヨナスによれば、マニ教は最初から精神と物質の二元論を前提としているがゆえに、グノーシス主義のなかでもゾロアスター教の影響が大きい「東方型」「イラン型」に分類されると言うが、これはマニ教のアラム語圏の文献がひとつも現存せず、中世イラン語系の文献だけで研究を重ねれば、自ずとそうなるであろう。

 ミフル神はアヴェスター語でミスラ神、サンスクリット語でミトラ神、軍神的な性格を持つ。

 マニ教団は韜晦であり、擾乱を得意とした。マニ教はあらゆる場面でゾロアスター教を冒涜したため、彼らから大きな怒りを買った。しかし実際はどうか不明。ゾロアスター教がマニ教から影響を受けている史実も散見し、どうも渾然一体としながら歴史は進んでいたようである。


 この青木さん、ちょいちょい自らを全面に出すことがあり面白い。自分のことを「青木とかいう研究者」と表現し、自虐的になるかと思えば、「業務委託」や「配置転換」など、現代組織人風な物言いが親しみを誘う。


 マーニー死後、教団は後継者たちにより興隆を極め、協会組織、儀礼、芸術が高いレベルで構築され遺される。度重なる迫害を受けてもマニ教は根絶されなかった。その大きな理由はマニ教が持つ大きな優位性、構築力の高い聖典を有していたからである。交渉伝承しかないゾロアスター教を置き去りにし、知的水準の高い人間はマニ教へ改宗していったという。


 しかし5・6世紀には、ゾロアスター教も聖典を整備するなどし、マニ教徒は安全な中央アジアに脱出していく。使徒マール・アンモーは布教していく中で、ミフル神を第二の使者から第三の使者に改変するなど、地域特性に合わせてその教義を変えていく。最終的には、キリスト教のローマ帝国国教化で西方マニ教は崩壊し、後は各地に残存教団がほそぼそと残ることとなる。


 中国でマーニーは光の仏陀になったり老師になったりした。滑稽といえば滑稽だが、宗教とはそんなものであろう。清王朝時代に、最後の傍系であった中国江南の明教も絶滅し、約1350年続いたマニ教は世界から姿を消す。青木さん、面白かったです。次は『ゾロアスター教』を読みますね。

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