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読書ノート 「ウクライナ侵攻とグローバル・サウス」 別府正一郎



  現在書き進めている小説のヒントとして、グローバルサウスの理解を深めるために読んだ。読んだところ、グローバルサウスの課題だけでない、世界の見取図が把握でき、うーんと唸るような心持ちになった。まずもって、日本がいかに恵まれていて、さらにその上での「役割」を果たせていない、もしくは果たすための努力を怠けているのではと、思い至る。


 著者は現役のNHKの報道記者。中東、アフリカを中心に世界を飛び回り、ウクライナ侵攻のルポルタージュとしてこの本を書いた。2023年8月発行。瑣末事ですが、なぜこの本が集英社から出ているのか。NHK出版では駄目なのかな。内容的に。


「人類は再び団結して、気候変動から疫病、その他多くの課題に取り組むことが期待されている。戦争をするならば、地球を危険にさらしているそうした課題に対してこそ戦争を起こさなければならない」

(国際連合グテーレス事務総長 2022年4月26日 ウクライナ侵攻が始まって最初にモスクワを訪問したときの記者会見)

 

 「誰もが自分なりの役割がある」
 「より偉大な何か」

 重いキーワードである。この読書ノートでわたしがよくやる手法、フラグメント(断片)を切り取り、読者に思いを馳せてもらう、というやり方は、こうした内容のものにはふさわしくないように感じる。
 切り取られたコメントは、受け手の想像の自由を確保し個人個人の読みを膨らませる楽しみがあるのだが、本当に、きっちりと伝えたいことを恣意的に断片化すると、本来の意図が曲解され、誤認され、間違った方向づけに加担してしまう(よくある芸能ニュースの切り取りですな。最近は政治までそのような誤謬を許してしまっている。マスメディアの伝達リテラシーの低さの現れである)。
 ではこの場でどのように表現するのがいいのだろう。何もできないのか。などと考えるが、翻って、ここは私の意見でいいのだと思い返す。私が受け取ったものを、もしくは私が曲解したことを、伝え、そののち情報がある方向に傾くのを助長するのが、この場における私の「役割」とする。その考えが、私の心に背いていない限り、それは正しいのだ。


 【ウクライナの悲惨な状況】

…(駅のホームで、キーウから逃れてきたエンジニアのデミトリ・オリシェンコさん)妻の44歳のオクサナさんと17歳と4歳の二人の息子だけを列車に乗せ、出発するぎりぎりまでホームから携帯電話で話をし続けた。その間、オクサナさんは涙を拭い続けた。最後は手を振りながらホームを出ていく列車を見送ったデミトリさんは「長男は状況を理解しているが、次男はなぜ父親が一緒に来ないのか分かってくれなかった。家族にはすぐ会えるからと伝えるしかなかった」と涙目で話した。

 …マリウポリでは16日、大勢の市民が避難する劇場までもが爆撃を受けた。劇場の外の地面にはロシア語で「子どもたち」と大きく白い文字で書かれていた。ロシア軍に対して子供の存在を知らせて空爆をしないように訴えるためだったが、それにもかかわらず空爆され建物は崩れ、300人以上が死亡したと伝えられた。

 …イルピンの町の中心部では一軒家やアパート、それに商店などの建物が空爆や砲撃で崩れたり、火災で焼けたりしていて大きく破壊されていた。また銃弾によるとみられる穴だらけの乗用車もあちらこちらに放置されていた。電気や水道も止まっていた。

 …「多くの人が殺された。ロシア軍がなぜこのようなことをする必要があるのか理解できない」

 …ショッピングセンターは6月27日にロシア軍のミサイル攻撃を受けて22人が死亡し、100人以上がけがをした。ショッピングセンターは面積1万平方メートルあまりの広さで、クレメンチュクでもっとも規模が大きいものだった。建物は骨組みだけを残し、屋根の部分はなくなっていた。広い範囲で焼け焦げていたほか、周辺にはガラスの破片が散乱していた。
 …マレッキー市長によると、ミサイルはショッピングセンターの壁を突き破って床に着弾して爆発し、爆風によって建物の壁や屋根の大部分が吹き飛ばされ、窓ガラスは粉々になり火災が広がったということだ。建物の太い鉄柱の中には、ミサイルの破片などが突き抜けたのか、穴があいて折れ曲がっているものもあり、爆発の威力を物語っていた。

 …「もう逃げることに疲れた」

 …多くの人が殺害され埋められている「集団墓地」の存在が確認されたのだ。地面には、地中から掘り出された遺体が並べられていた。青いズボンをはいていた男性のものと見られる遺体は膝が折れ曲がっていた。ズボンは一部がちぎれ、遺体の足は痩せ細っていた。私が見えた範囲では少なくとも6人の遺体があった。

 …「この一帯では500人ほどの遺体が埋められている可能性がある。首にロープが巻かれたり、両手を縛られたりした状態の遺体も見つかっている。拷問や処刑の被害だと見られる」

 …首都がこんなに暗くなるものかと思った。…真っ暗な夜の町では、人々が照らすスマートフォンのライトと車のヘッドランプの光だけが見えるような状況になった。そうした中で一部の商店は発電機を使って営業を続け、町中いたるところでエンジンのような発電機の音が響いた。

 …(集合住宅の)管理人によると、室内に飛び込んできたミサイルが爆発して燃え広がり、その部屋に一人で暮らしていた75歳の女性が亡くなっった。管理人は「彼女は室内で横たわって亡くなっているのが見つかった。自分と同じ年齢で、よく立ち話をした。みんな悲しんでいる」と話して下を向いた。

 …激戦が続いていた南部ヘルソン州に隣接するミコライウ州で、戦闘の激しさを示すように、うち捨てられたロシア軍の軍用車両や撃墜されたヘリコプターが集められ展示している場所を訪ねた。軍用車両の一部に枯れたひまわりが、あたかもそこに生えてきたかのように置かれていた。誰がどのような理由で置いたのか分からないが、死亡した兵士を象徴しているようにも見えた。


【国連】
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まって以降、国連の安全保障理事会ではロシアの拒否権で侵攻を非難する決議案は採択されていない。国連総会では非難決議は採択されて国際社会の意思はたしかに示されたが、そもそも総会の決議に拘束力はない。 
 国連安保理の常任理事国で、拒否権を持つロシアが侵攻を引き起こしている以上、国連事務総長にできることはあまりない。…そもそも事務総長は全ての加盟国が参加する国連総会が任命するが、その前に安保理が勧告する。その勧告において常任理事国は拒否権を行使することができる。つまり、ロシアを含む5か国の常任理事国のうち1か国でも反対すれば、その人物は事務総長にはなれない。1992年に就任したエジプト出身のガリ事務総長については、アメリカのクリントン政権が拒否権を行使して再選を阻んだことがよく知られている。

 

「事務総長は雇われたマネージャーにすぎない」
 

(ロシア・当時のラブロフ国連大使) 

「連帯の言葉をいくら語っても、それが十分でないことは分かっている。安保理はこの戦争を食い止め、終わらせることに失敗した。これは失望、不満、そして憤慨に値する」「私には安保理を改革する権限はない。そんなことがすぐに可能だという幻想も持っていない」

(グテーレス事務総長)


 ウクライナ戦争やイスラエルのガザ侵攻・ヨルダン攻撃によって国連の無力さが顕になった。その背景は複雑で、それを一層複雑にしているものとして、グローバル・サウスの動きがある。


【グローバル・サウスの考え】


「フランス・ポルトガル・ベルギー・イギリスなどアフリカを植民地支配していた国々はそれについて謝罪すらしていない。そのような国々に指図される覚えはない。今でもアフリカに来て天然資源を好きなように持っていくが、アフリカからの移民の受け入れは拒否している。それならばアフリカ大陸から出て言って欲しい」

南アフリカANC青年同盟クレガニ・スコサナ議長

 …欧米への憎しみの感情こそがウクライナ侵攻で欧米と対立する構図になっているロシアへの支持に転じているように感じられた。欧米では根強い欧米中心主義が存在し、それは時に報道の隙間に現れる。「(ウクライナについて)ここは第三世界の途上国ではない。ヨーロッパだ」(白人女性記者)などの発言。

 敵の敵は見方という論理によって、アフリカ諸国はロシアに加担する。それは情報機器に慣れ親しんだ若い世代ほど反欧米を鮮明とする。ロシア、そして中国はそうした流れ・感情を見逃さず、そうした国々との関係強化を着実に図っている。それらに靡く国もあれば、そうではなく、どちらの側とも距離を取り、自国利益を最優先すると標榜する国もある。

しかし、もっと崇高で未来へ向かった思考もあるのだ。

 ケニア・キマニ国連大使の訴え
「(単一の民族や人種、宗教に基づく国家の追求という)危険なノスタルジアに浸って過去の歴史に固執した国を作り出そうというのではない。…我々は前を向き、多くの国や人々がいまだ知らない偉大さ(greatness)を目指すことを選んだ。我々がOAU(アフリカ統一機構)と国連憲章のルールに従うのは、何も国境線に満足したからではない。平和の中で達成される、より偉大ななにか(something greater)を求めたからだ」

 植民地支配に蹂躙されたアフリカの苦しみを、その負の歴史を背負いながら前進していく決意を訴えることで、ロシアのウクライナ侵攻がいかに時代錯誤で身勝手かということを浮かび上がらせた。


【ウクライナの考え】

ウクライナ・クレバ外相
「…ただはっきりさせなければならないことはある。それは、これはロシアとウクライナという二つの異なるナラティブの間で起きている戦争ではないということだ。「ロシアにも一理あり、ウクライナにも一理ある」という類のものではない。ウクライナが体現する真実と、ロシアが吹聴する嘘の間で起きている戦争で、各国はどちらの側に立つのかはっきりとさせる必要がある」


【アメリカ 】
 …アメリカが深刻な失敗をすることもある。折しもアメリカが国連安全保障理事会の決議を得ずにイラク戦争に踏み出して20年が経った。開戦の大義とされた大量破壊兵器にしても、フセイン政権とアルカイダのつながりにしても、多くの人が疑問を呈していたが、やはり存在しなかった。アメリカ政府の元高官からはその後、間違いを認め失敗を後悔する発言も出ている。そんな戦争を日本政府は2003年の開戦直後に「アメリカの武力行使を理解し、支持する」と表明した。アメリカに追従する形になったことを真摯に検証し、歴史の教訓をシビアに学んだ上で、現在に活かすことが求められている。



【日本・日本人として】
 …ウクライナの人々は、日本を復興の指標(日本の第二次世界大戦からの復興)とする声もある。イギリスオックスフォード大研究者団体の調査では「民主的な国で暮らす人は世界人口のうち29.1%程度で3人に1人にも満たない。反対に70%以上の人が権威主義的な体制のもとで暮らしている」日本は「自由と平和と豊かさ」を持っている。
 
 大抵の日本人は、ウクライナやガザで起こっていることに心を痛めるものの、どこか「対岸の火事」と言うふうに思っている。自分たちの暮らしからは想像できないほど、その地域での現実はかけ離れているからだ。そのなかで、物質的な豊かさを個人のために使って何が悪い、と開き直ったり、国の安全や防衛について考えるのは気が重い、めんどくさい、として戦争を見ないようにしたりする。あげくのはてには著者に向かって「戦争の話ばかり報じて、戦争を推進している」などと明後日の方向から小言を言う日本人もいる。

 そんなんで、いいのだろうか。わたしたちは、何ものなのか。日本人とは、そのようなものだったのだろうか?わたしたちの悲惨な経験は、そのあとに「偉大な何か」を考えさせたのではなかったか。それは幻か?


著者はみずからのルポルタージュを以下のようにまとめる。

…15世紀から17世紀にかけての大航海時代に、世界は「一体化」が進んだ。しかし、それはヨーロッパによる地域の破壊と犠牲をもたらした。スペインは南米で抵抗を続ける先住民を殺し、脅しながらプランテーションや鉱山で酷使し、ヨーロッパがもたらした伝染病によって先住民の人口は激減した。ベルギーの国王はアフリカの広大なコンゴを私有地とし、そこでは抵抗する地元の人の手や足を切断する残虐な行為が繰り返された。イギリスは中東での工作でアラブ人とユダヤ人に相反する約束をして、今のパレスチナ問題の原因を生み出した。フランスは1962年までアルジェリアを植民地支配し、独立運動を弾圧する中で残酷な拷問を繰り返した。人権も民主主義も平等もヨーロッパの本国だけで尊重された概念だった。

 そうしたヨーロッパの非人道的な行為を正当化するために、わざわざ「科学的」な装いまでほどこして白人人種が有色人種より優れているという白人至上主義のイデオロギーを編み出した。ドイツではナミビアで行った虐殺で殺害した地元住民の頭蓋骨を持ち帰り、白人が優れていることを証明するための「研究」に利用した。そうした頭蓋骨は数百個に上ると見られるものの、ドイツがドイツが頭蓋骨の返還を始めたのは実に2011年になってからだ。ゆがんだ白人至上主義の下で白人は世界を「文明化している」と言い張り、アジア、アフリカ、中東、中南米などの植民地支配を正当化した。

 しかも第二次世界大戦が終わり、血みどろの戦争を経て独立しを勝ち取ったものの、グローバル・サウスは今度は「経済的な植民地主義」に直面することとなった。先進国によって資源や労働力が収奪される発展途上国という従属的な関係に置かれたまま「南北問題」」が深刻化した。そこに東西冷戦も加わって米ソの政治的軍事的な介入が相次ぎ、翻弄されることになった。そしてその東西冷戦がようやく終わったと思ったら、「グローバル資本主義」の波が押し寄せ、より直接的に資本の論理にさらされるようになった。豊かな文化や言語がありながら、先進国のような「中心部」から客体化される「周辺郡」とみなされた。気候変動をとってみても、「中心部」が大量に排出してきた温室効果ガスがもたらす実害は、ほとんど排出してこなかったにもかかわらず「周辺郡」に押しつけられている。

 しかしそのような時代はいよいよ終わりを迎えつつあるのではないか。ウクライナ侵攻への国際社会の対応は、欧米が軍事力はもとより、政治力や経済力で国際社会を主導し、時には屈服させることが、もはやできなくなっている現実を浮き彫りにしている。グローバル・サウスの多くの国々が大国間の対立ではどちらにも与せず、自らの国益を追求する立ち位置を鮮明にしているさまは、グローバル・ノースがもたらした「南北」や「東西」の分断にノーをつきつけているのだとも言える。

 我々は今、歴史の転換点の大きなうねりにいるのかもしれない。500年に及んだ西洋による支配が終わりを告げつつあり、目の前には多極化する新しい世界が出現している。この新しい世界ではグローバル・ノースであってもグローバル・サウスであっても、どれだけ「より偉大な何か」を目指していけるかが問われている。そもそも世界の構図が急速に変わる中、ノースやサウスという区別すらますます曖昧になってきている。またノースの独善にサウスからの批判はたしかに正当なものであるが、サウスにも実利追求を優先する偽善があることも指摘しておかなければならないだろう。困難ではあるが、考えようによっては国際社会全体が新しい共通の課題に挑戦できる時代になってきたともいえる。その挑戦において、ロシアにおけるウクライナ侵攻を新たな国際連帯で解決できるかどうかは、重要な試金石になっている。


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sakazuki
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