読書ノート 「排除の構造」 今村仁司
〈概要〉
われわれの希望は、暴力なき社会の実現である。
では、なぜ社会の生成過程には排除という暴力的な作用が出現するのか。
秩序の生成と暴力をめぐる根源的な問いを、文化人類学の成果やマルクスの価値形態論などと関連づけながら、第三項排除効果論として精緻に分析し展開した暴力的理性批判の書。
生産主義的理性批判への出発点となった、現代日本を代表する思想家の記念碑的論考。
序 荒ぶる力
第一部 理性と暴力
Ⅰ暴力の本性
暴力への視座/神話的暴力/犠牲を要求する暴力/神話的暴力と自然史的力/暴力なき理性
Ⅱ理性と暴力
はじめに/思考の条件としての第三項/哲学と暴力/治療としての哲学
Ⅲ全体化に抗する理性
策略的知性=狡智/ポレーモスとアゴーン/実践的理性/メティスの本性/エピスメーテーとメティス/排除する理性
Ⅳ批判の原理としての第三項
ファルマコン/ファルマコンの本性/過剰の管理
第二部 排除の構造
Ⅴ第三項排除効果
ⅰ問いのパースペクティブ
ⅱスケープゴートとしての近代貨幣
ⅲ全般化した流動的スケープゴートとしての資本
ⅳ社会数(nombres socials)
ⅴ第三項排除現象群
ⅵ排除された第三項の定義
無差別について
両義性について
ⅶ一揆契約の構造
〈一味同心〉
〈一味神水〉
ⅷ第三項排除における身体活動
Ⅵ排除の構造
はじめに
ⅰ第三項の形成
ⅱ承認欲望
ⅲ模倣欲望
ⅳ第三項の選択
ⅴ儀礼
ⅵ排除の視線またはメデューサ効果
ⅶ変身=メタモルフォーゼ
ⅷ全員一致現象
あとがき
解説:〈破壊的な知性〉 鷲田清一
序 荒ぶる力
「個物の尺度からみれば、個物が生きつづけるかぎり、荒ぶる力は生命の源泉であり、個物が死すべき運命にあるかぎり、荒ぶる力は破滅の源泉となる。このような力は、自然史的力とよぶほかはない。
「われわれの主要な関心は、つねに人間の歴史のなかに現れる暴力現象である」
人間存在は、暴力的な存在
理性も労働も、物象化を通じて、暴力的存在へと変質する。
「われわれは、一九世紀以降、理性を根拠として世界を合理化する企ての限界を知っている。マルクスのイデオロギー論、フロイトの無意識の理論、ニーチェの形而上学批判によって理性の自足性の幻想はうちくだかれたばかりでなく、歴史の経験によって、世界の合理化過程が実質的には世界の非合理化過程と共犯関係にあることもつぶさに知ることになった。
二〇世紀の歴史は、世界の合理化が世界の非合理化へと転落する歴史であった」
「近代合理理性の構造の中に、暴力を許す何かがあったのではないか、安易に理性と暴力の連関を処理しすぎたのではないか、理性自体が暴力への傾斜を内面的に抱えているのではないか」
暴力について/子供の社会関係は大人のそれと劣らず暴力的である。/「平和」とは、戦争の休止状態でしかない。
非合理主義・・・単なる理性不信ではなく、理性に内在する暴力を逆用して、暴力の合理化を推進する「理性的」思想である。
合理主義と非合理主義は、暴力のキャッチボール・ゲームを楽しんでいる。
最悪の合理主義は、自己の内なる暴力的非合理性に無自覚なままに、合理性という名の暴力的非合理性を実行する。
最悪の非合理性主義は、合理主義の現実態を口実に、暴力的非合理主義に居なおり、それを合理的に弁証する。
非合理主義は、合理主義があってはじめて生存できる影である。非合理主義への批判は、必然的に合理主義への批判へと通づる。どちらの面でも、暴力は手つかずのまま放置されている。
「暴力の本質を問い尋ねることを放棄することも、暴力に居なおり、暴力に魅惑されることも許されない。暴力は理性に比べて非本質的で偶然的なものでは決してない。暴力は、理性を包摂してしまうほどに強力な現象であって、だからこの暴力に魅惑されて暴力を肯定する思想も現れる」
「どのような通念にも一片の真実が含まれる。近代の合理精神が理性を持って暴力を乗り越えようとしたことのうちにも真実があり、非合理主義的な暴力神話の中にも真実がある。われわれの課題は、合理主義と非合理主義の共犯関係を超えたところで、最も人間的な、人間に固有の暴力の本質を究明することである。理性とともに暴力が消え去るだろうと楽観するのでもなく、またこの世界には暴力しかないと悲観主義的な諦念に陥るのでもなく、暴力と人間との関係の諸相を分析し続けることこそ肝心である」
「思想における批判精神とは、理性の自己反省と自己批判の実践にほかならない」
第一部 理性と暴力
①ーⅠ暴力の本性
「暴力が秩序から生まれる」
ワルター・ベンヤミン「暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ、と言ってよいだろう。というのは、ほとんど不断に作用している動因が、暴力としての含みを持つにいたるのは、それが倫理的な諸関係のなかへ介入する時であり、この諸関係の領域を表示するのは、法と正義という概念なのだから」
「法の根源に暴力がある」(ベンヤミン)
根源的暴力=秩序(コスモス)生成暴力=神話的暴力
「暴力の本性とは、いたるところで犠牲を生産することだと定義できる。犠牲者とは、排除される存在である。犠牲生産的暴力は、排除する力である。前に、私はこの犠牲生産過程を、第三項排除と名づけた。第三項としての犠牲者(生贄、贖罪山羊)であることは、根源的な場面では、秩序・法・権力の根本性格である。言い換えれば、「法措定的」暴力が発動する場面では、犠牲者(第三項)は、本来の権力(秩序の中心)なのである。「法維持的」暴力が生み出す犠牲は、副次的性格をもつのであって、第一次的な犠牲者(第三項、権力)の生命力を養う栄養素に過ぎない。犠牲として暴力から生まれた権力は、自己維持のためにさらに多くの犠牲を要求する。ここに犠牲の循環過程が始まる」
スケープゴート・メカニズム
根源的な場面で排除される者(第三項、犠牲者)が秩序の中心に権力としてすわる
ついで権力となった第三項(犠牲者)が自己維持のために純粋の受動的犠牲者を増殖させる
王(第三項=犠牲者=権力)の特徴は「唯一性、隔離、隔たり、貴重さ」
排除の瞬間にたたき出される第三項のユニック性
エリアス・カネッティ「王に関して決定的なことは王の唯一性である」
ベンヤミン「神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力」を「神的暴力」とも呼んでいる。「神話的暴力が法を措定すれば、神的能力が法を破壊する」「前者が脅迫的なら、後者は衝撃的である」「前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる」
権力とは、延期され猶予された暴力である。
ベンヤミンの暴力論は、ちょうどニーチェの「力の意志」が「血の匂いのする」暴力=権力と生命力的な力の発現との両義性を帯びているのと同じように、両義的である。︙ベンヤミン的な「神的暴力」は、はるかに人間の尺度を超え出るものである。前に述べたように、それは、善悪の彼岸にある。私は、そのような力を、さしあたり自然史的力と呼んでおく。
自然史的力は、犠牲を要求しない。それはスケープゴード・メカニズムとは無縁である。それは、第三項排除の力ではない。このような自然史的力が現れる場面はきわめて少ない。その数少ない場面は、ベンヤミンの示唆するところによれば、「言葉」の世界である。言葉が衝撃力と破壊力をもちながらも犠牲を要求しないこと、原理的に暴力を排除すること、そのことの中にベンヤミンはおそらく暴力批判の可能性を見出したのだろう。
しかし、言葉も、命令の言葉ともなれば、言葉はその内に「棘」を含み(カネッティ)、永遠にスケープゴード・メカニズムを発動しつづける。
「言葉についていえることは、理性についても妥当する。理性にも「棘」がある。理性が暴力化し、権力となることもありうる。理性は、解放力を喪失し、物象化する時、それは道具的で非創発的な理性に変質し、ひたすら秩序と権力の維持者になり下がって、他者の排除に汲々とすることにもなる。理性から棘を抜き、命令する理性から非暴力的理性へと転換させる努力のなかに、第三項排除の効果を断ち切る展望がきりひらかれるであろう」
「暴力批判は、単なる実践主義ではどうにもならない。実践主義は、たいていが第三項排除的暴力の発動を伴う。そうした実践の在り方、それを支える精神をも根源的な批判に晒すことこそ、暴力批判の最大の課題である」
暴力との対決を通して希望を育てる。
①ーⅡ理性と暴力
第三項排除効果→社会文化のあらゆる領域に現れる。
効果はたいてい不可視、潜在し、事実確認が大変困難である。
第三項を特定することはきわめて困難。
効果を可視的にする「手がかり」が必要。特権的事例のいくつかは『暴力のオントロギー』(今村仁司)の中で触れた。
「哲学や思考が自己の内面の内にひそむ暴力性の契機に盲目であったからこそ、哲学と思想の歴史のなかでは暴力が現前しなかったにすぎないのではないか」
「︙だが、どれほど抑圧され遠ざけられても、思考自体と暴力とが同根であり、共同組成的であるかぎりは、暴力は思考のなかで形をかえて生きのびる」
「暴力の不在の実現不可能性をしりつつ、なお暴力の不在をめざすのが、思考の運命というものであろう」
「哲学の他者は『誤謬』や『偽』ではなく、暴力である。真/偽の対立は、すでに成立した思考体型内での対立である。暴力/哲学の対立は、哲学(思考)の生成に関わる対立である。真/偽の対立に比べて、哲学(思考)/暴力の対立ははるかに根源的である」
「存在のなかに満ちる暴力から恐れおののきつつ逃れ出るには、人間は『語り』にすがるほかはないのではないか」
「ディスクールは、一挙に暴力を克服することはできない。ディスクールはその都度部分的な首尾一貫性(コエランス)しか実現できない。ディスクールは完全な首尾一貫性を目指しつつも、たえず首尾一貫性のなさへと逸脱する」
「思考とは、ひとつの決断である。具体的諸個人は、逸脱と偏心化の自由のなかに生きる。具体的諸個人から具体性を消去し、個体性という普遍へと昇華することで、ディスクールのなかでの自由を個人に与えることができる」
理論的実践のなかで、第三項排除効果が働くとはどういうことか
どのようにして思考が第三項を形成するのか
思考が第三項を排除的に形成するばかりか、思考自身が何よりもまず排除される第三項ではないのか
暴力=病、治療の哲学
プラトンの『法律』全体が、治療学の観点から書かれている。
「病気を癒やすための薬(ファルマコン)」
ファマルコン→毒=薬
「伝染や誘惑の媒体は感性である」
プラトン的視座から見ると、貨幣も伝染力と誘惑力をもっており、それ故にこそ病気のひとつなのである。→病気の最たるものは「商業」。「商業」は、自由な市民には最もふさわしくない、きわめて恥ずかしいなりわい。「商業」とはそれ自体が罪であり毒であり、病気である。
資本も排除された第三項
古代貨幣から近代貨幣への「命がけの飛躍」
プラトンは貨幣を恐れた。「(貨幣が)ひとを悪の道へ走らせるのに何か強い力を持っている」からである。
プラトンの思考の鋭さが消えるのも、排除される第三項のファルマコンとしての両義的作用の効果である。
「伝染」」「誘惑」の別名は「策略」である。
①ーⅢ全体化に抗する理性全体化に抗する知性
策略的知性(メティス)
メティスのマニュアルは存在しない
メティスは公然とあるがままには現れてこない
それは思考の明るみや、それを定義しようとする学問的著作のなかには現れない。
それはいつも多かれ少なかれ「くぼみのなかに」現れるもの
メティスは、知性と思考のひとつの形態、ひとつの認識様式
メティスは、感、分別、予見、柔軟さ、見せかけ、抜け目なさ、注意深い態度、機会を捉えるセンス、様々の技倆、長い間に蓄えられた経験などを結合する。
メティスは、才覚な測定、精密な計算、厳密な推論では到底歯が立たない。移ろいやすく、可動的で、人を面食らわせるような、曖昧な現実に応用される
プラトン以降の哲学は、メティスを無視する
二分法的な枠組みのなかに、メティスが入り込む余地はない
メティスはわれわれの日常生活内の「行為の技法」(ミシェル・セルトー)にまで通じている
トリックスター、「あざむく」「いたずら」者=ギリシア的メティス
女神メティスは、ゼウスの最初の妻。ゼウスに食われてしまう
ゼウスはコスモス、メティスはカオス
メティスは、混乱、戦争、反乱、紛争、無秩序、荒ぶる神、暴力、ダイモーン〔魔神)的力
ゼウスはメティスを飲み込むことで、宇宙と神々の安定を図る、メティスを積極的に利用する
ゼウスの「策略」は、メティス的力を逆手に取って秩序の維持と安定のしもべにつくりかえることにある。
ゼウスはメティスを食うことで、自らがメティス的になる。ゼウスの体内に入ったメティスは、いわば矯正された、方向づけられた、管理された「荒ぶる力」になる。
「策略の神メティスはゼウスの策略に負けたが、ゼウスの策略の構成部分となったメティスは、ゼウスが統轄するパンテオンの示差的距離の体系を維持する役割を分担する。コスモスからカオスが根絶されるのではない。コスモス自身(ゼウス)がカオス(メティス)を吸収して、おのれの生命力の源泉に切りかえるのである」
策略的知性がその最も特権的な活動の場を見出すところは、日常生活である。
軟体動物的な身のこなし、変身、とらえどころのない身体技法、を身に着けなければならない
ヘーゲルに対抗するアドルノは、知的軟体生物。
否定の弁証法は、哲学的ゼウスの体内から躍り出た荒ぶるメティス
非同一性とは、原初のメティスの哲学的表現である。
論争や討議、競技は原初的暴力性の代理、補充、痕跡である。
哲学の道は、ある意味では最も安易な道である。アカデメイアのなかでは、誤謬や失敗は死につながらない。真理の光に照らして精神の失敗は訂正可能である。実践的世界のなかでは、ひとつの失敗は、ひとつの死を意味する。
哲学的知性は、ある意味では愚鈍であり、呑気である。
メティス的知性の二つの特性
①知性の生動性、精神の繊細︙素早い動き、鋭い洞察力
②到達すべき目標(目的)を的確に視野に収める力︙一瞥の的確さ、目ざとさ
アリストテレス的「プローネージス」(フロシネス、知慮、思慮、賢慮、知恵)の元型がここにある
エピステーメー︙正確な知、計算・測定の結果による真理、同一論理学を武器にした形而上学、画一的な万能の海図。数学的理性。プラトニズム。
アリストテレスは、プラトニズムの限界を感じ、実践的知性(メティス)に血縁をもつプロネージスを復権し、プラトニズムの行き過ぎを軌道修正せざるを得なかった。
「エロスは決して困窮もしないが、また富みもしないのであって、さらには知と無知に関してもその中間にある者なのです」(プラトン『饗宴』異国の客人)
ダイモンとともに生きる、ダイモンは、プローネージスの守護神
プラトンによってダイモン的職業と世俗的職業の位置づけが逆転させられた
プラトンによって、両義的な存在であったソフィストがポリス的秩序から排除されることに
プラトンの排除は赤裸々で、それは恐怖に基づいている。
両義的存在、中間存在、周辺存在、秩序の弱い環、境界線から暴力や病気は噴出してくる。プラトニストからみれば、そこは化け物の世界であろう。
この暴力現象群に対して、プラトンはもうひとつの知的・法的暴力を差し向けた。それが治療としての哲学・政治である。「毒を持って毒を制す」
批判もまた毒にして暴力である。
①ーⅣ批判の原理としての第三項
ファルマコン→ファーマシー(薬学)ファマルコン→排除される第三項
ファマルコン=第三項は、両義性を持つ。ファマルコンは、「境界線上に場所を持つ」という静的表現ではなく、、たえざる両極化、極性的運動、諸項への同時参与といった動きのなかにこそ、よくその本性を表出する。
ファマルコンの両義性は、運動の両義性または運動する両義性である。
ファルマコンは、差異の運動、場所、遊戯(産出)である。それは差異の差延化である。
運動としてのファルマコンは、対立項のいずれにも属さず、あらゆる対立項を超える過剰である。
ファルマコンの特性を、
プラトンは「現前の彼岸」と呼ぶ。
デリダは「トランスカテゴリアルなもの」「吐き出されたもの」「地下墳墓」と呼ぶ。
アルチュセールは「排除される内在的な暗闇」と呼ぶ。
今村仁司は「認識論的第三項排除」と呼ぶ。
制御不可能な過剰としての、流動的第三項、これを管理・制御しようとする時、流動的第三項は、固定的・実体的第三項に変質する。
こうして流動的過剰の消失が、言説の条件となる。
「過剰の管理は、転倒から生まれる。
根源的過剰を抑圧し、それにとって代わる代理物が生誕するとき、反復と自己複製の自動装置が働き出す。
あらゆる二項対立と差異の体系は、流動的過剰の代理の代理である。
シュミラクルのシュミラクル、コピーのコピーの無限の連鎖が形成される。
第三項排除効果が働くからこそ、こうした代理と転倒が生まれるわけであるが、この効果が不可視のものとされるかぎりでは、転倒が正立へと反転する。
現前的存在者が今度は「起源」ないし「原理」となる。現前としての真理を出発点として、それに対立する非真理とシュミラクルがつくられる。真理/非真理、オリジナル/コピーのあらゆる変形物をふくむ二項対立的ファルマシーが不易の制度になる。このような区別は、一時的ではなくて、転倒から生まれた二次的区別にすぎない。
転倒から生まれた知の代理補充の構造、反復の構造をあばきだすためには、ファルマコンの運動に戻る必要がある。すなわち、流動的過剰としてのファルマコンの置換の瞬間に立ちかえらなければならない。
現前的存在者が、その存在の瞬間から、流動的過剰を代理する実体的ファルマコンであるが、このファルマコンという同一の場所での「取り違え」のなかにこそ転倒の秘密がかくされている。
存在者の存在のなかに密かに走る起爆的暴力としての切断線を、排除的効果の線に沿ってあばきだすとき、頭で立つ知の転倒をもういちど点灯させることになるであろう。
それは、制度的ファマルコンを立てることではない。過去のファマルコン的知を毒にみたて、その解毒剤として別のファマルコン的知を立てるということは―すでにそれがプラトンの戦略であったが―転倒せるファマルコン的知の反復構造を免れることはできない。
転倒の転倒は、制度化し固定した代理物の差異体系のなかに、排除効果の軌跡を見つけ出し、制度としての知が不可視として排除する流動的過剰を発見していくことである。
あらゆるところに流動的第三項の作用を見つけだし、かくされた根源的暴力の切断線をあらわならしめることこそ、知の経済(学)批判の終わりなき営みとなるであろう。知のファルマコンあるいは認識論的第三項は、この批判がよって立つ特権的場所である」
反省する理性
物象化し制度化した理性の体系が不断に発動する排除効果の動線を発見することが、反省する理性の第一の課題である。
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