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読書ノート 「群衆──モンスターの誕生」 今村仁司
すべてにおいて重要なことが書かれている。このような書物はどのように扱ったら良いのだろうか。すべて暗記する、書き写す、一緒に寝る、一緒に風呂に入る。きっとはた迷惑だろう。
だれも ひとりひとりみると
かなり賢く、ものわかりがよい
だが、一緒になると
すぐ、馬鹿になってしまう
ところで、物体運動論的視点から群衆を考察した先駆的研究があるのかといえば、私の知る限り、一つだけあります。それがエリアス・カネッティの『群衆と権力』です。
…カネッティによれば、群衆には四つの特質があります。
①「群衆はつねに増大することを望む」
②「群衆の内部には平等が存在する」
③「群衆は緊密さを愛する」
④「群衆はある方向を必要とする」
(エドガー・アラン・ポーに)『メエルシュトレエムに呑まれて』という作品があります。…メエルシュトレエムという大過は、群衆の寓喩であると言っておきたいのです。
(メアリー・シェリーの)『フランケンシュタイン』は怪奇小説の元祖のように見られていますが、別の観点からすればそれは群衆小説ともいえます。
群衆には名前はありません。もし名前があるとするならばそれはモンスターと言う名前こそが適切でしょう。これがメアリー・シェリーの重大なメッセージです。
自我理想の代理である対象が自我を食い尽くすことこそ、群衆形成の基本的論理でしょう。
トクヴィルとマルクスの不吉な予感は、不幸にして二十世紀では現実になりました。地球上のあらゆる地域で、ナショナリスト群衆が自らの胎内から「指導者」を産出し、両者が提携して「全体主義国家」を作り出してしまいました。「全体主義国家」とは群衆的デスポティズム(独裁政治)であります。それは情念の等質性を機軸にするから、それに同調しない他者や異者を排除し、差別していきます。二十世紀の帝国主義国家はまぎれもない群衆国家なのです。この世紀の二つの世界大戦は国家をかつて以上に群衆化するのに貢献したと思われます。そして「群衆デスポティズム」国家は今度は反転して人類の群衆化傾向を加速していきました。その証拠が、あらゆる地域で登場した専制主義的指導者とそれに熱狂する群衆の存在です。左翼的形式であれ右翼的形式であれ、デスポット(独裁者)は本質的に群衆の、群衆によって算出された、群衆のためのデスポットなのです。行動も心理も同一です。古代的な「タイラント」(僭主)の政治ともアジア的専制君主制とも違う近代の群衆的デスポティズムが、現代社会と政治を導く支配の類型として成立したのです。まさにこの事実が忘却されてきました。本書はこの事実に読者の注意を喚起するために書かれました。
「神話機能」は、現代では国家への隷属化、ひいては群衆化を促す。故にそのような「神話的語り」には、それが「神話的」であると「指差す」ことが何よりも大切。「指差し機能」は「目覚まし効果」をもつ。
現代では神話は、思考することを奪うようになってしまった。楽天的に憧れを持ってポジティブな神話をいつもイメージしていた私に、ネガティブな神話が覆いかぶさる。親父も鋏も神話も使いようだ。
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