読書ノート 「シンボルの哲学」 スザンヌ・K・ランガー
1942年に書かれた、アメリカ記号論の礎を築いた記念碑的古典。らしい。原題は「新しい基調の哲学」。発刊当時は10万部以上売れたそうだ。
彼女は1916年、女子大学ラドクリフ・コレッジに入学し、論理学者のシェファ-に師事、そこで論理のうちに様々な新しい形式を生み出すことを学ぶ。これが彼女の生涯の主要な武器となる。つまり、その体系のやり方は特殊から全体へ、全体から抽象へと、論理学をいわば「形式の科学」として捉えていくものであった。
とはいうものの、内容は、いまいち。特に夢について、「何の役にも立たない」と言い、「夢を見ている間その活動はとくになんの実際的目的にも役立っていない」「(シンボルを、目的を持った思考を保持するのを助けるための記号とし)夢のシンボル作用はそのような習得された機能を何も果たしていない」「せいぜい我々が考えたくないこと、実践生活の防げになるようなことを我々に示してみせるだけである」と言う。わかってないなあ、と思う。「なぜ心は夢見るものの活動を導きもせず、ただ現在の経験に合わない場違いな過去の経験をまぜるだけのシンボルを、わざわざ作り出す必要があろうか」馬あ鹿。なぜランガーは夢と距離を取るのか。自分と分別し、離れて立つのか。夢は自分自身であるというのに。これが西洋合理精神のやり方かあ、と言いたくなる。きっと友達にはなれない。
夢に直接的実践利益を求める姿は、怠慢で獣欲的なブルジョアを想起させる。ここには差別と操作、搾取と支配の規律が見て取れ、ああ、つまらんと思う。主客の合一を知れ。自らを顧みて顧みずに生きる姿勢を学べ、と言いたくなる。
というわけで、反面教師としての読みができて、すこし嬉しい。まあ、1940年代、まだフロイトが発見されつつある時代であり、シンボルを記号の一部ぐらいにしか把握できないランガーはソシュールも構造主義にもまだ出会えてない。こころの科学も言葉の科学もまだ未発達。仕方ないとも思うが、やはり許せない。
例えるならこんな感じか。
彼女は友人に対して、
「なぜあなたは私に関係のない昔話や場違いなジョークばかり言うの。
そんなの何の役にも立たないじゃない。
私のために全く、なんにもなってないわ。
うるさいわね。消えて」と唾を吐きかける。
すると、その唾が彼女の顔にべちゃっ、とかかる。
彼女は自分自身という友人に唾棄したのだ。
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