連載小説【夢幻世界へ】 3−1 第三世界の男
【3-1】
阪急京都線河原町方面に向かって走る列車の中で、つり革につかまりながら牧口貞子はスティーリー・ダンの「第三世界の男」を聴いている。
『Gaucho』最後の曲だ。スティーリー・ダンで女子が悦に浸るのは少し珍しいかもしれないが、貞子には二十年前にはじめてこのCDを聞いた時の恍惚が、今も持続している。
牧口貞子の仕事は経済団体の事務局員ということになっているが、早い話がOLである。既に四十も超え、独り身でいることに少し肩身が狭いが、少子高齢化の進む日本では、これからよくある独身女性の姿と割り切り、日々を楽しく過ごしていきたいと考え、好きなプログレや渋谷系に浸っている。
やっぱり『Gaucho』なのよねえ、と貞子は思う。ドナルド・フェイゲンのソロもいいけど、この『Gaucho』のソリッドな雰囲気は他にはないの。「Babylon sisters」の女性コーラスのハーモニーが都会の夜を感じるのよねえ。格好いい。
でも、プログレッシブ・ロックといってもスティーリー・ダン以外は実は聞いたことがない。他に彼女が好むのはXTC(『orange&lemons』)や、Flippers Guitarやpizzicato Ⅴ(それも田島貴男が在籍している時の!)であり、大変狭い趣味である。若かりし時、淡い思いを抱いた男性とともに青春時代を一緒に彩ってくれた音楽に、四十過ぎの今でも心血を注いでいるのだ。
人生に大きな野望もなく、たまにこのまま一人で年老いていくのかもといったぼんやりとした不安がよぎることもあるが、現在のそれなりに満たされた生活に不満もなく、このままずっと同じでも、受容する態勢はできているのであった。
電車を下車し、自宅まで十五分徒歩で帰る。帰りがけにファミリーマートに寄り、牛乳とフィナンシェを買う。夜空を見上げながら(今日は満月で晴天だ)、嬉しくもなく、悲しくもない心持ちのまま、ひとり颯爽と歩き続ける。
第三世代のiPod miniで「Gaucho」が終わったため、wheelを回し、違うアルバムを探そうとした時、急にiPod miniが光り出す。
きゃあ、と小さな声を出したが、それは夜の闇にかき消されていった。
光は強くなり、広がり、あたりの景色を見えなくしてしまう。驚いている貞子を置き去りにし、光はさらに強く、広く、周囲の景色の全てを飲み込んでいった。
今度はわあ、になり、貞子は何が何だか分からなくなって、そのうち意識が遠くなる。
気が付いた時、貞子は煙の中にいた。
わあ、火事!と咄嗟に思うが、火は見えない。煙が視界を妨げるが、よく注意してみると、煙はそんなに濃く充満しているわけではない。煙ではなく、霧のようだ。霧の奥にうっすらと建物らしきものが見え、それは時間とともに輪郭をはっきりとしたものに変化させていった。
石造りの教会のような建物に、その周囲は高木が立ち並ぶ。欅だろうか。鬱蒼とした林が浮かび上がる。
吃驚している貞子の前に、古めかしい教会のような建物は、窓から明かりを漏らしている。正面の扉が開き、若い背の高い男が出てくる。
「ようこそ、お待ちしていました、貞子さん」
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