読書ノート 「笠置寺 激動の1300年」 小林義亮
「笠置寺 激動の1300年」 小林義亮 ミヤオビパブリッシング
2017年に初めて笠置寺を訪れた時、その峻険な岩場と佛図に衝撃を受けた。明恵もこの寺を訪れている。縁のようなものを感じ、この本を読む。
著者は元りそな銀行のサラリーマンで笠置で育った方。素人個人の著作とは思えない精密な史実調査と豊かでエモーショナルな感情表現など、大変好感が持てる。ここでは、笠置寺の中興の祖と言える貞慶と信仰のあった明恵の項について書き記す。
■明恵■
栂尾の明恵上人は貞慶と考えを同じくし、法然の念仏宗に厳しい批判を加えた貞慶の盟友であった。明恵は紀伊の武士湯浅氏の出で幼くして両親をなくし、高雄の神護寺に上って文覚や文覚の高弟である上覚に師事し、16歳の時東大寺で授戒、以後、主に華厳経を学んだ。
34歳の時、後鳥羽院から高雄の奥の栂尾の地を賜り、そこに高山寺を建てて華厳の道場とした。明恵は建暦2年(1212年)にここで法然の『選択本願念仏集』に対する批判の書『摧邪輪』を著している。
建仁3年(1203年)、高弁は笠置寺に貞慶を訪ねている。貞慶より18歳年下の高弁にとって新仏教に対する理論的旗手である貞慶は信頼の置ける先達であった。笠置寺には二人の交流を物語るものとして、明恵上人の『夢記』の断片が残されている。
両人について一つ注目しておかねばならないことがある。貞慶が笠置隠遁後も京や南都の有力者や有力寺院との関係を保ち続け、「興福寺奏状」のような国家的論争や南都仏教の復活に傾注した一方、明恵は法然を批判する著述をおこなったが、仏教教理からの批判であり、完全に世俗との関係を払拭し、宗教生活、隠遁生活に徹した点に両者の相違が認められることである。
笠置寺に解脱上人伝とする後世の一文が残されているが、この中に明恵が貞慶を訪ねて笠置寺に行ったところ、「来て見てハ、ここもみやこにすみなして、おもひしほとは、棄てぬ也けり」と笠置寺がまるで南都のようだと言って貞慶に会わないで空しく帰った。貞慶はそれを恥じて海住山寺に移ったという逸話が記されている。真実のことではなかろうが、両者のちがいを表す話ではある。
貞慶と明恵の仲を知るエピソードを鎌倉後期仏教説話集の『沙石集』より一つ。
「春日の大明神のご信託には、明恵房、解脱房をば、我が太郎、次郎と思うなりとこそ仰せられけれ」
謡曲春日竜神には、明恵が入唐渡天の暇乞いに春日を参詣したとき、春日大明神が明恵、貞慶の参詣をいつも待ち望んでいる。仏在世のときならともかく、仏亡き後、今は春日の山こそ聖地である、と入唐渡天を止める話がある。