「主語がデカい」が良くない理由を考える
いつからかTwitterを始めとするSNSやネットでよく目にし、いつの間にか呼び方も固まっていた「主語が大きい」という表現。
「男って…」「日本人は…」「これだから平成生まれは…」と主題がキャッチーに示されることも相まってか、過激とは言わないまでも行き過ぎた発言もよく見られ、たびたび炎上の火種となっている光景も目にします。
デカい主語のあとに続く発言が差別的だったり、偏った考えであったりした場合はもちろん問題ですが、主語が大きいこと自体はどうなのか…
そんなことに思いを巡らせてたどり着いたのは【表現としての解像度の低さ】です。
(↓参考:解像度とは)
発言者自身がどれだけ細かく客観的に世間を見ていて、どれだけ明確で鮮明に対象を思い描いていたとしても、それが表現されておらず、受け手としては何を指しているのか分かりづらくなっている状態ではないでしょうか。
「言及したい対象が含まれている言葉を使っていれば問題ないのでは?」と思う方もいるかもしれませんが、俺はそう思いません。
主語じゃないパターンで極端に例えると、美味しい・不味いでしか表現されない食べ物の味を想像できるでしょうか。少なくとも、俺は無理です。
せめて甘いのかしょっぱいのか教えて欲しいし、どんな食べ物の味に近いのかだったり、どんなお酒に合うかなんかも聞きたいです。
それと同様に、言及したい対象の属性1つだけではなく、別の属性でも括れないか、どんな場合の話なのか、どれくらいの頻度で遭遇するのかを考えていくと、解像度が上がっていき適切な主語が作り上げられていくんじゃないかと思います。
掛け合わせる数が多いほどイメージがふるいにかけられていき、表現としての解像度が上がって、対象が鮮明になっていきます。
あと、この過程によって世界を見る視点やワードチョイスの個性が顕れてくるはずなので、きっと損はないです。
この他、主語以外でも「ヤバい」「闇深い」「エグい」などデカい言葉は使われがちなので、述語パートでも同じように表現の解像度を上げることができるので、話がうまくなりたい・いい文章を書きたいという人は意識的に言葉を増やしたり、大きい言葉を避けるのもいいと思います。俺もがんばります。
ここまで書いて、前に近い話題を記事にしていたことを思い出しました。ぜひついでに読んでいってください。
一人でも多くの人が、思ったこと・考えたことを明確に言語化できて、コミュニケーション上の不可抗力で気が磨り減らないようになれるといいなと願います。
それじゃ、また。