宗教感パート2
自分の宗教感について書くのは2回目だろうか。
何の役にも立たないかもしれないが記録として書き記しておく。
うちの家は浄土真宗(ちなみに母親は神道の出で神社ともゆかりのある家の出)で、浄土真宗の教えや親鸞さんの考えは比較的しっくりくるので、うちが浄土真宗であったことにはありがたさも感じているのだが。
僕には悪人正機で言うところの善人みたいなところがある。(ちなみに悪人正機では善人の方がタチ悪いとされる。)悪人正機で言うところの、人間みな本質的に悪人というのはそれはそうなんだろうし、自分も悪人なのに時に善人みたいにしてしまうという振り返りは大事なんだけど、今回の話のポイントはそこじゃない。
わからん人ほっとくけど(調べてね)、他力本願というのがどうもね。ピンときてない。一般的な言葉で自力かと言ったら、何かするという気力もなく仕方なく生きてるだけなのだがね。
何がピンとこないのかというと、南無阿弥陀はともかく、存在というのは救われることなんて無いのではないかとどこかで思ってしまうのだ。
南無阿弥陀って唱えると救われるって優しい言葉を投げかけてくれて、それが救いになる人もいるんだろうけどね。優しさだと思うけどね。
救われないと思うんだ。ほんとのところ。
仏陀はもう生まれ変わらないって言ったけど、それってもうええわって言いたかっただけだと思うんだ。多分仏陀はどこかでそうは言ってもまた生まれてくるんやろなって思ってたと思うんだ。だけど言いたかったと思うんだ。
僕が感じる無常っていうのはそういうことで。自分じゃどうしようもない。だからある意味他力本願てのもわかるんだけどね。だから何がピンとこないのかを突き詰めると浄土ってのがピンとこないんだ。そんな気の効いた話無くて、宗教ってファンタジーだと思うんだ。
似たようなところで、キリスト教の神さまってのもどうかと。日本の神さまでもいいけど。ようは神さまってほんとに在るとしたら、それは人間より大きな力ってだけで、善悪なんてわかんないもんだと思うんだ。
だからそりが合わなきゃ呪いにしかならない。
ユダヤ教なんて呪いでしょ?呪いから救うためにキリストが生まれ、キリストでもずれちゃったとこを補正するためのイスラム教だったのかしらんけど。
結局人間は神を見てないんだよね。
神の子って言われたスーパースターと神の声を聞いたって預言者を見ただけで。
それに。
大地を割るものがいたとして、
海を割るものがいたとして、
死んで復活したものがいたとして、
水をワインに変えたものがいたとして、
それは愛の証明にはならない。
嫌味っぽかたらごめんね。
神を信じさせるためにキリストが死ぬサドマゾみたいな物語もその発想の行き着く先に愛なんてあるの?って僕の感覚的にしっくり来ないとこもあるんだけど。愛という名の狂気でしょ。まあ狂気は人間にあって、キリストは狂気を映す鏡なのかも知らんけど。
脱線した。
それはそれとしてね。仏陀もキリストもね。すごい存在だとは思うの。それはね。ほんまにいたなら相当な苦労もしただろうし、ほんまにすごかったんだとは思うの。
だけどね。今現在においても人間は救えないの。他力本願だろうと神を信じようと救えないの。
だからね。宗教ってね。結局救えないし、救われないんだけどね、いつか救われるかもって思うためのファンタジーだと思うの。
だから優れた宗教は、思想とか文化とか言うより愛でできていると思うの。
神や仏が愛っていうより、そういう愛。
だから発明でもある。
僕はそんな風に思ってる。
(要するに思想は好きだけど、信仰してないのだな。わかりました。)
何にしろ、結局のところ宗教は平気で生きるやり方ってところに行き着くのだと思う。
だから例えば白洲次郎さんにとっては、葬式無用、戒名不要で良かったんだ。
うちの田舎にはお墓があって、父親はそのお寺の歴史を調べた縁もあり親しくしてて住職さんもいい人だけど(お経の声がいい)、そのお墓に入るのはうちの母親が最後かな。うちの夫婦は子供がいなくて参る人もいないから、樹木葬でいいし、最後に残った方は墓に入れてくれる人もいなくて共同で纏めて供養かねえなどと言っている。