つぶやき2022.2.1-2.6
西村賢太さん54歳は早いよな。
田舎に太陽の季節の文庫本があったので、数十年前によんだことがある。わりと面白かった。
TLに石原さんへの一言が散見される。生きてる時に言えよ。死んでから言っても何の効果もない。
カッコ悪いツイートはTLに流れてこんといてほしい。
情けなくて笑えるのは良い。
死んでからの時間というものは関係ある気がする。あと認知の深さとか。要は、時間も含めた自分との距離。その人に人間味を肌感覚として感じているか。無機質に感じるかどうか。
距離が近くても、非人道的だったりすると人間味を感じなくて、攻撃的になるかも。
要は、親しみを感じる要素があるかだね。
死んだ人のことを悪く言うなっていう時に、死んだ人へのシンパシーを感じるかどうかだね。
死んだ人のことをよく知らなくても、その人を悪く言うな。っていうのは、死せる人間というものにシンパシーを感じるかどうか。どんな人にしろ天寿を全うしたことにシンパシーを感じられるか。
それを超えるNGがあると、シンパシーを感じないのだと思う。
まあ、人によるし、ケースバイケースか。
人は結局、主観で生きてるからね。
死んだ人を悪く言うな。て、言うのもその人の主観。価値観は全て主観です。
笑えないことばかり言いたがる芸人とかね。
真摯になるなら、仕事に対して真摯になる方がいいよね。
ま、わたしは働くの嫌いですけど。
笑わせることで勝負しない芸人は笑えないねって、レニー・ブルースが草葉の陰で言ってたらしいぞ。
幸せって何だっけと忘れた時は、ポン酢醤油のある家を思い浮かべてほしい。
Sir Kyffin Williams
中国向けに出版された土門拳の写真集が届いた。古寺巡礼などから仏像の写真のみを選りすぐり構成しなおしたもの。印刷もよく写真は当然見応えがある。彼の本の中では比較的コンパクトで狭い我が家にはありがたい。
内輪の話なので書かないが何だかなあということがあった。仕事も何だかなあというメールがきた。生きてると何だかなあということが色々ある。自分が悪いわけでも人にそう落ち度があるわけでもない何だかなあが沢山自分に降りかかる。調子良い時はまだ良いが疲れている時はほんとに何だかなあとなる。
長く共同して生活していく上で安心するのはメンタルの安定性だよな。正味の話。もちろん、身体も含めて健康の大切さというものがリアリティをもってくる。歳とると。
あと結婚して1番ありがたいのは奥さんが料理上手なことだな。出費を抑えつつ美味しいものを作ってくれる。毎日のことだからね。ほんとありがたい。
運動しろとか、掃除してこまめに動けとか、奥さんがお尻を叩いてくれるので、邦正〜、田中〜、タイキック〜
温泉に行きたい。
体力、気力、精神力、あらゆるものがスパイラルとなって減退している。
外的要因からの心的問題が長期に渡りlet me downさせた結果、些事すらハードボイルドみを感じてしまう。
休息しながらも困難に抵抗していくしかないわけで滋養と温泉と2兆円が恋しい。
求めたければ与えよと言った人がいるらしいが、それは損得というか、ギブアンドテイクというか、人間心理的な、テクニカルな話ではないかと思うところもあって。それより根源的なところに、いくら与えようと、求めなければ得られないというのがあるように思うのだ。
漁夫の利みたいな話じゃなく、ほんとに欲しいものは、求めないと得られない。
とてもシンプルな原理があるように感じる。(経験則
この原理を好ましく思うか、というと、あまり人情にはそぐわない気がする。
世の中を見渡せば、人に迷惑をかけてまで、或いは、不正をしたり人を陥れてまで、がめつく求めたものだけが贅沢を謳歌している。ま、太古の昔からそうなんだろうけどね。
人間の本質なんて恐らくそう変わらないから、未来永劫、醜さを抱えて人は生きるのだろう。滅びるまで。
負けん気の強さは、意志を持って物事を推進していくのに役に立つが、例えば自分に対してなのか、人に対してなのか、と言った方向性、もっと言うと、力を入れる方向性が肝心である。
中には、人に対してでないところに負けん気を持っている人もいるだろう。
素直に見て聞いて話す人同士でないと、正しさについての話はできない。諍いが起こる。
ある場合の設問に対し正しい解答をしたとしても、人間社会ではある社会において、その正しい解答が尊重されない、或いは、受け入れられないことも、多々ある。広い社会では、それが正しい解答として適用されることであっても、狭い社会では拒絶されることが、ありうるのだ。
自己の正当化も、本当に必要な時以外はしない方が良いんじゃないかと思ってる。
正当化には緊張が伴うから。不必要な時に緊張は要らない。
人のズルが嫌いという人がいる。凡人の場合、自分はズルしたいけど、人のズルは許せない。多くの場合、私が我慢しているのに、アイツだけズルいと損した気になるのだろう。
僕の場合だったら、ほんとに自分(或いは大切な人)が不利益を被った場合にのみ糾弾するかもしれない。
人が傷つかない、人が困らないズルなら、いいんじゃないの?
って思う。
自分がズルしたくない人というのもいると思う。それは、なんだかんだが自分の人生にあって、自分がズルしたくないと思ったからだと思う。その価値観も主観であり、自分がズルしない人間でありたい。という、自分の欲望(欲求)に忠実だということです。
私が否定するものでもないし、否定も、否定したい。という欲望からです。
要は、正しさ。というものは主観であり、欲望なのです。
全体最適など、社会がうまく回るための最適解としての正解はあるかもしれませんが、その最適解を求めることも、みんながなるべく幸せなら良い。という主観、欲望です。
いこらやんのか?
権力に粘着するだけでお金入っちゃうから粘着するんだろうな。
利権が簡単にまかり通るから利権ばかり求めちゃうんだろうし、不正しても大して罰せられないから不正するんだろうね。
すべて銭のためですわ。辞められまへんなあ?
悪いことをしない。ということは、欲望がない。ということとしばしば類似性を持つでしょう。
しかし、悪いことをしなければ生きていけるというものでもなく、何かを守るためには、誰かにとっての悪(不都合なこと)でも、自分の価値観(欲望)に基づく行動を起こさねばならないこともあるのです。
最近晩御飯食べたあと寝ちゃう。
体感自分が実年齢より15才くらいおじいさんの感覚。
こうしんどいと、体力のある肉体にやどかりしたくなってくる。
そんな漫画や小説はまだないのだろうか。いや、特に知りたくもない。
あの日に帰れるとしたらいつに帰りたいかという質問については、しんどいので帰りたくないと、幼少の頃から思う人生だった。合掌。
激さむ(エミネム風に)
20年くらい前に観た映画のタイトルを思い出せない。単館でやるような感じの映画で音楽のカセットテープを探すようなシーンがあったはず。ロードムービー?色々なことを忘れてしまう。
若き作曲家の旅って映画かな?
このシーンはこの映画かもしれないけど、観たいのは違う映画だったかも。
正しさも主観という話をしましたが、主観というものも不確かなもので、生まれながらに自分が持っている欲求もあれば、他者や環境から自覚的に或いは無自覚に与えられた欲求(価値観)もあるでしょう。
何が正解というのは私にはわかりません。その人の主観に対し私が主観的にどう思うか。
結局、いくら理性的に理屈をこねようとしても、その理屈は自分の価値観(欲求)が選択したものなので、人間がすることはどこか感情的(自分の価値観などから欲する行為)にならざるを得ないのです。
正しさを張り合うという行為は、いくら正当化を試みようと、ある立場からの主観をぶつけ合っているに過ぎないことをご理解いただけましたでしょうか?
(がてんがてん)
主観をぶつけ合うのが悪いと言っているわけではありません。
もうお分かりかもしれませんが、人が人と関わり合うという行為は、広義において、全て主観をぶつけ合うということなのです。ですから、人と関わることは、どこかでお互いが傷つくという宿命を帯びているのです。
だから、人は、人と関わる上において、人を傷つけることに自覚的であった方が良いと思うのです。
独裁者というのはあれかね?ほんとは両親にいい子だねって言われたかっただけなのかね?困った子になった原因は。
知らんけど。
迷える子羊のジンギスカン
時々、神さんの嫌がらせかと思うほど、トホホなことは起こるね。
垂水近くの坂の上に暮らしていた時、DJ帰りの車からターンテーブルのスリップマットが強風に煽られて飛んでいき、あれよあれよという間に坂道を転げ落ちていき、とうとう回収できなかったことがある。
あと車でDJに出かけた時は、車中にレコードを置き忘れると、太陽で照らさた車内が高温になってレコードが曲がることがあるので、徹夜明けで眠くてもレコードバッグは回収しなければならない。
布ごしにアイロンをあてて何枚かは矯正できたけど、何枚かは帰らぬ人(レコードだけど)になった。
奥さんがパートで働くことになった。ほんとに多才な人なのだがありきたりの仕事しかない。私が職を失い仕事を求めるとしたらもっと仕事がないかもしれない。
年金を受給する年齢が繰り上がっていく一方で年長者の雇用の充実にはほど遠い社会だ。
ましてや若者の雇用はしっかりしてほしい。
社会はもっと人を生かす(活かす)ということを真剣に考えた方が良いよ。
生きにくい社会である1番の原因は、これだと思う。人が生かされるような社会であれば、自然とお金の巡りさえ良くなってくる気さえする。
高級食材を使った豪華な食事。
紀文もいいがヤマサもいいぞ。
恵方巻きのお使いを頼まれた。
仕事が片づいたら北北西に進路をとりたい。
くちびると言ったらクチビルゲです。
アベノマスク見てるとアベノミクスは結局経済センスがゼロの人に支持されたんじゃないかって色眼鏡で見ちゃうよね。
安倍晋三の顔を立てることに特にわめくつもりもないが、顔を立てて一体何人の日本人が救われるのだろう。&追加でいくら税金が使われるのだろう。&使った税金の効果はやっぱり小さく限定的な気がしちゃうね。
安倍晋三だって生きている。ということで、希少生物に対する保護活動なのかな。
まあ。無能でも担がれて効果を上げる神輿はある。
そんなこと考えるくらいには僕はドライ。
政治的な人がある種の人間からアレルギーに似た拒絶をされる場合、イデオロギーが相反するある種似たタイプの人間から反感を買う場合と、態度ややり方や説明などに配慮が欠けていて人間的に反感を買う場合と、政策に対して純粋に反対している場合があり、区別して受け止めるべきだと思う。
あと職業政治家というか、ツイッターで文句言ってる人達のレベルの反対してるだけで、実態に働きかけない、エセ政治家もいるよね。
政治家だったら、政策を論じよう。
問題を解決できるとこまで細分化するとは、例えばこういう思考法のことです。
うちの母親、3回目のワクチン打てたので、それは国や医療機関に感謝したい。
午後の珈琲
問題を解決するには、問題を丸裸にすることです。
或いは、問題を問題としたままにしておくという解決法もなきにしもあらずです。
この世界はややこしい。
もうちょっと説明しましょうか?
問題を解決しないことにより誰も傷つかない問題というものも問題の中にはあるのです。
問題を丸裸にするまでは可(それすらしなくて良いこともある)ですがわかった上で何もしないことが最上の選択である場合もあるのです。
パンドラの箱的なことですかね。知らんけど。
今日のほぼ日は、社会で働くたくさんの人に読んでほしいので、スクショさせてもらいました。
日本はサービスが良い国だったけど、どんどんサービスというものが無くなってるね。人の心が世知辛くなってる印象もあるけど、主な原因はサービスに対応できる人手が確保できないんだろうね。
ややこしいクレーマーみたいなのもいるから、割り切らないとサービスのコストが膨れ上がるしね。
クレーマーって一時の感情や損得で、総合的な低サービス化に貢献したね。
昭和と違って、日本人、仕事が雑。
自分の知ってる話の範囲で物事のやり方を進めようとするから日本はよくならないのかな。台湾みたいにすべての人の生活に関心がいくようにならないと言ってるだけで取り残される人だらけの社会になりそう。
例えば、コロナ対策に文句言ってる人なんかに多いんだけど、100%うまくいって当然みたいに思うのは気をつけた方がいいよ。
よくわからない中で努力してることに対して。駄々っ子みたい。
さっき流れてきたツイート、うちの会社のマネージャーにもいたね。ぜんぶ自分と同じような考え方で仕事取り組むべきとか、価値観の引き出しが自分しかないやつ。
自由にやれ。散れ。バカヤロー解散。
まあね。昔話をすると、僕の若い頃は駄目だしだけされて、どこがどんな風に悪いかは全然教えてもらえなかった。どこが悪いかも、自分で考えなきゃいけなかった。
今はみんな急がされてるもんね。僕も後輩にここはこういうことが考えられるんだって教えちゃう。解答は考えてもらうけど。
正解を出すスピードは早くなるだろうけど、ほんまにそれでええんかな?とかも思ったりする。
難しいよね。
私が思う悪いことの定義は、人(人に限らない)の大切にしていることを不用意に傷つけるか否かだ。
その意味において、人間はかなり悪い生き物じゃ、あーりませんか。
たくさん傷つけておいて、ふんぞり返って生きている。
誰も傷つけないというのは無理かもしれない。けれど、傷つけることに対して自覚は持ちたいですね。
罪の文化、恥の文化という言葉があったが、私自身がそうであるように、あまり罪の意識や恥の意識を持たずに生きている人が増えているのではないか。
そうなった時に自分を(良い意味で)抑制するものは何か。
自分の理想だったりするのかもしれない。
しかし理想というものも危ういけどね。
理想のよりどころが親の背中だったりね。やはり豊かな人間関係に根ざすしか、人が救われる道は無いのかもしれない。何とも人というものは諸刃だ。
理屈っぽいごたくを並べているが、暇なのでごたくを並べているのであって、常に理屈で人と付き合っているわけではない。それにわたしは理屈より直感を大事にする。
人間関係などというものは理屈を超えた相性があるし、時に相性を超えた想いにより結ばれる縁もある。
腐れ縁というのもあるしね。
わたしは博愛主義者ではない。
心根の悪い人は死滅してほしいと思っている。
しかし世界は誰かの思う通りにはそうそうならない。私も例外ではない。
眠いが眠れないが寝る。
胡散臭さっていうのは馬鹿っぽくておおらかじゃないと食えたもんじゃないね。
胡散臭い自覚のない胡散臭さってのが、笑えないと駄目なんだろうね。
品も豊かさも知性もない人は、がめつく金を儲けたなら、ほどほどのところで一線を退いた方が、みんなの豊かさのためになる。
企画を他者に委ねているならその限りではないかもしれないがその目利きも信用に足るものか。
人の深刻さって馬鹿にするとロクなことがないと思うし、かと言って、人の深刻さには近づきたくないという心情もわかる。
それって、深刻さって、深刻の渦中にいる時は解決ができないことが多いからかもね。
深刻さに自分でちょっと距離を作れた時、ようやくその深刻さから抜け出すきっかけができる。
鬼が来たが豆が無いので豆知識をぶつけてみた。
私が運転すると
銭形「いや、ヤツはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの結婚適齢期です」
クラリス「重いわ!」
TLにアドバイスが溢れている。
いらん。
人にアドバイスするとしたら、人にアドバイスを求めすぎないことだ。
昔々会社には何々した方がいいオバケというのがすんでおったそうじゃ。
時間や資源に限りがないのならそりゃした方が良いことはこの世には限りなくある。その心理を突いてした方がいいした方がいいと呪いをかけてくるんじゃ。
とっておきの呪文を教えてしんぜよう。
「それってコスパどうなんすか?」
自分のことを信じなければ生きてはいけないけど、自分を信じるのは匙加減が必要。落とし穴がいっぱい。
人間はデフォルトでどこか間違ってるとこがあると思う。
何かすごくいい子ちゃんみたいなこと言うツイートが多いね。
そういうのは、いい子ちゃんだね。って感想しかないよ。
もっと、40過ぎるとオナラかと思って身が出ることありますよね。とか、鼻毛抜いたら思いの外長かったnowとか無いのかよ。
なんでみんなそんなに意味ありそうなことばかり喋ってるのだ?
半々でええやろ。
まじめか。
「先生、弟子にしてください。」
「わかった。ただし一つ条件がある。これから全ての語尾にニョロニョロニョロニョロをつけなさい。」
「わかりました。」
「ニョロニョロニョロニョロは?」
「わかりましたニョロニョロニョロニョロ。」
「いい子だ。」
こうして僕と先生のニョロニョロ生活が始まった。
「先生、おはようございますニョロニョロニョロニョロ。」
「飽きた。」
「えニョロニョロニョロニョロ?」
「飽きた。」
「えニョロニ・・・」
「飽きた。」(被せ気味に)
こうして僕と先生のニョロニョロ生活は終わった。
前向き症候群の人は時々後ろ向いたり後ろ向き症候群の人は時々前向いたり、し慣れないことしないと柔らかくならない。
#僕と先生 再び
「先生、大変です!」
「どうした?」
「データが解析不能です。」
「何だと?」
「どうしても答えが虚数になるんです。」
「そんなはずはない。説明がつかないぞ。」
「妖怪の仕業かもしれないぞ。」
「山田くん?」
「きっと妖怪の仕業です。」
「山田くん?どうした?」
「いや、僕が妖怪です。」
「何を言っているんだ、山田くん?」
「あなたこそ何を言っているんだ。あなたこそ妖怪だ。」
「山田くん・・・」
「すみません。」
「いいんだ山田くん。」
「何がいいんですか、先生。」
「仕方ない。地球の生物は絶滅し地球上には我々2人の妖怪しかいない。私の仮想地球危機ゲームに付き合ってくれてありがとう。」
「先生・・・」
「暇だね。」
「暇ですね。」
「ものすごく暇だ。」
(完)
人のことは歳なりに見てしまいがちだけど、自分のことは年齢不詳になってくるね。歳とると。人によるのかな。
天才には凡人のすることがわかるが(気持ちはわからないかもしれない)凡人は天才のすることがわからない(気持ちもわからないかもしれない)。
天才を例えば専門家や玄人、凡人を素人に置き換えてもよい。
凡人や素人が設計をするとシステムは粗悪になる。色々なことが行き届かず設計思想が甘い。凡人や素人に確認すべきはユーザビリティやニーズであって(素人こそが気づくこともある)、システムの設計ではない。
ものごとの適材適所を知らないと粗悪なものが生まれる。
補足すると、ユーザーとしては、消費者の方が玄人なのであり、使いやすさなどは消費者の方がわかる。
こんなのだったら良いはユーザーの方がわかるけど、だからといってユーザーのいう通りのものを作ったらよいかというと全体としての俯瞰が不足する。
人が美しくも醜くもある以上、黒とせず白とせず中間のグレーのような意識であるとスムーズに事が流れやすい。
良し悪しではなく性質上の確率的なことを言っているに過ぎない。
白を白と言わす黒を黒と言わすましてや白を黒と言わす黒を白と言わす。そのような世界や力の見せ方もあるだろう。権力者はそうして権力を手にし保持してきたのかもしれない。
しかし私にはそぐわない。
わたしは自由を愛している。
だから力で権力を得ようとするものは自由を迫害するのだろう。
品も豊かさも知性もない。自分に何もない者が力を行使したい時に自由が奪われようとする。糞を召し上がれ。
男の武器なんてものは犬も食いません。
カッコつけるとカッコつかないんであんまりカッコつけないんですがカッコがつきやすいカッコのつけ方がないか考えてみたところカッコつけてることがバレてもカッコいいと思われそうかカッコつけてることがバレるとカッコつかなそうか想像してみるとカッコつけたもんか少し冷静になれるかもしれません。
坊さんみたいな話ばかりしとるが、わしわもっとこう、ぬくぬくと生きたいのだ。健康を害さん程度にぬくぬくとな。
Twitterなんかしても時空を超えて、心の繋がりなんて広がらないね。
引きこもりの気持ちも幾らかわかる。
特に引きこもるつもりもないんだけど職業的役割を果たしてくれればあと何にも関係ないくらい世間と関わりないし。
SNSなんて、おじさんからすると、社会から分断されていることが可視化するだけです。すごいよな。世界と繋がってるけど、ほぼ全員赤の他人。フォロー、フォロワーつったって、面白い他人というだけ。
因果や縁起といったものは自分の考えによらないところであると思うのですが、ダイレクトな関係性のない赤の他人ばかりの中でツイートしているのです。
まあダイレクトな人間関係を築くには至らないでしょう。私のツイートが自分以外の何かに働きかけるとしたら、むしろ本来制御できない因果や縁起に働きかけているのかもしれません。
知らんけど。
共存してないようで共存してるんだろうけど、共存してるようで共存してない。
親子とか家族はまた違うのかもしれないけど人間関係って僕にはこんな感じかな。
僕は寂しいし頼りたいのだろうが、埋めてくれるものも頼れるものもないと察している。
人によっては埋めてくれる人や頼れるものを手にすることができる。こうした人は与えられているようで、自らが掴みとっているのだ。
僕のサガはこれを手にすることが難しい。生き方のクセがしみついているのである。
人間は何て生きるのが下手かと思わんかね?
ツイッターは、物理的に孤独を解消するコミュニケーションツールにはならないが、孤独な時間をやり過ごすおもちゃとしては役立っている。僕の場合。
こじらすと、求めないことが、社会に対する復讐みたいに考えることもあるかもしれない。
ある効果は得られるかもしれないけど、まず得もしないと思うよ。
大局的に進めるために些事には目を瞑るべき時もある。
しかし、多くの問題は些事に宿る。
些事の問題点を大局的に捉えられると良いのかなと思う。
些事に宿る感情を疎かにすると恨みを買う。必ずしも感情の一つ一つに対応しきれないだろうが、このことを心に留めておくかどうかで大局が変わりうる。
人をリードする仕事につきたいなら、豊かな感性を養ってほしい。
さもないと、あなたが上に立った時、周りの世界が辟易する。
ツイートで何かを発言する時には、1人寛ぎながら書いていたとしても、(ネットを媒介せず)ほんとに1人で寛ぎ考えている時とは違う心理バイアスが、発言に対し働くかもしれない。意識的か無意識かはともかく、他者に対峙する時、程度は人によるだろうが自己は脚色されがちである。
他人を意識しているかどうかで、どうしたってこの様な心理的バイアスは働きうると思う。
だから性格テスト等というものは、環境によって答えが変わるタイプの質問もあるだろう。環境に対する親しみや好意がどうか。つまり、味方の中で発言しているのか、敵に囲まれて発言しているのかなど。
嫌いな相手と好きな相手。対する時の発言は変わってくるのが自然だろう。
これを一貫性がない。というのもおかしな話である。そもそも人には、相手によらず一貫していることと、相手によって変わる可変部分があるのだ。
そのため、自分に関わる話も、直接相手に聞くのと他者を通して聞くのでは違ってくるだろうし他者が誰かによっても違ってくるだろう。
嘘をつく。という行為を意図的にせずとも、人の話はこれくらいの曖昧さを含んでいる。
弱みがあるから愛されるというのは裏返せば根底に嫉妬心や自己否定感があるからではないのか?
なんて言うと嫌われそうだけど。
弱きものへのシンパシーとか憐憫は何処から来るのか等と考えていた。
何が感情を動かすのだろう。
この子は可愛げがないね。等という親しみに関連する感情は、自己へのシンクロ率から来ているだろう。
そこには、安心感、母親の体内にいる時のような自分を攻撃しない羊水の様なものを潜在的に求めているのでは無いか?
そしてそれが実際にその様なものであるかは認知や感情の歪みやバグにより異形化するだろう。
この様な、正解もわからない、特にほんとうに知りたいという訳でもないことを、ふと空想することが、ツイッターしてから増えた気がする。
お金をたくさん稼ぐ人は稼いだのだから自由にしたらよいが、多くの人が暮らしに困る中で一人勝ちして悦にいるような人を、見返りもないのに貧乏暮らししながら信仰する人は、相当なマゾなのだな。と思う。
人生で足りないもの。
それは明らかにお金です。
お金以外はまあまあ何とかしてる。
月面旅行したいとか、高級な外車が欲しいとか、毎日料亭に行ったり寿司食いたいとか、派手にお金を使いたいわけでもないのに、お金が足りない。
結構働いてきたが、お金が足りない。
明らかに富の分布は一極に集中しているし、流れるところにしかお金が流れない。どう考えても生きにくい。
平均的給与がどうとか、ライフバランスがどうとか、支出を減らしてとか、ある程度の我慢とか、そういう話はおいといて、1日に何時間も働き人生の大切な時間を提供している対価として、得られるお金(というより自分に使えるほんとに自分のための時間を充実させるもの)が少なくバランスが悪い社会だ。
本来大切な、自分に使えるほんとに自分のための時間を充実させるもの。というのが贅沢品のようにすらなっていて、日々の生活の最低必需品すらやりくりするのに必死というのは、どう考えても経済対策等、社会の取り組みが優れたものだったとは言い難いのではないか。
以上のような不満があるところに、不満どころかコロナで存続すら危ぶまれる社会が到来した。泣きっ面に蜂というか、神がいるなら神は人が嫌がることしかしないと思う所以である。
まあ人間が都合良くいったらいいなと思いたいだけで、昔から狩りに出かけたところで獲物が得られるとは限らないように、うまくいかないのがデフォルトなんだろうけどね。
何が言いたいかと言ったら、都合良くいったらいいのになあ。ということだけである。人生に濡れ手に粟をくれ〜。ご加護を〜。
お前が欲しい
もう結構よう働いた。違う時間の過ごし方をしたいのだが、なぜ人生はそれをゆるしてくれないのだろうか?
先立つお金が無いからです。合掌。
贅沢なことは言わないから遊んで暮らしたい。
運動しないので私は駄目です。
助けてください。
今すぐ手持ちのお金を振り込んで!
クエンティン・タランティーノのおしゃべりばりに今日はツイートをしたが特に言いたいことがある訳ではなく、うっぷんが溜まっているだけである。
こんなところにつぶやいても一文の足しにもならない。どこかにうっぷんを換金できるシステムは無いのだろうか?
無いのであれば、ウッフンの方がエロい。
落ちている時は音楽まで聴かなくなってしまう。ターンテーブルをセットした。
人生における選択ミスはしょうもないほどあとあと引きずることがある。
いやしょうもない話である。レコードの買い逃しなど。
【好奇心は身銭と身時間を費やして成長する。】
か。確かに。(ほぼ日より。)
がっつり肉を食いたいが当面予定ないな。いきなりステーキを出すような店をやれば流行るのではないか?
Google mapsでご近所のグルメ情報をチェックした。食欲を満たすのが生きがいだ。
関西ローカルの番組にも何回かでている唐揚げ屋さんで唐揚げ買ってきた。公園でビールと。
コロナ落ち着いたら食べ歩きしたい。金をくれ。
冬季オリンピックについて。
話の長さの単位を1バッハと呼ぶ。
人類は人を忙しくさせようとしすぎである。真に効率的に働いたことのある人は、これが真に効率的に働いたことのない人間の発想だと気づいているだろう。
こう見えて、会社にしろ、家庭にしろ、気に食わないということを口にすることはほとんどない。
気に食わないことは山ほどある。
気に食わないことは気に食わないというのではなく、実態を変えるように働きかける。相手がそれと気づかない内に変えてしまうのが好みだ。
まあ、家庭のことは、ほぼ言うなりにしつつ、案外好きにしてる形か。
わたしがリアで気に食わないという時はよっぽどの時である。
僕は旅をした数が多いわけでも友達が多いわけでも恋愛が多かったわけでも社会的に地位があるわけでも特別裕福だったり貧乏だったり特別な家庭環境に生まれたわけでもなく人生経験がバラエティに富んでいたわけでもない。
ただ日々の中のことを感じ思い考えたり考えなかったりしてきただけである。
永遠にカッコいいだろうことは幻想でなくきっとあって、カッコよさを希求するならそういうカッコよさがいいな。
立春。
春が立つのである。
春よ立て。(言われずとも勝手に立つのが春。)
力が欲しいか?
うどん屋が言うとまた違った意味を与える。