つぶやき2022.8.1-8.15
牛乳屋さんが作ったブラジャー
牛乳屋さんが認めたおっぱい
正解のない時代だからこそ、焼き鳥の皮は塩。
外出する時ルイボス茶買っちゃう。
今日は奥さん外出で晩飯の用意がないので治外法権、早速挑戦!
「ドリトス」にカットトマト、レタス、豆腐、ローストビーフ、スライスチーズ、スイカ!をトッピング。ケチャップとマヨネーズ、粉チーズを絡めて。
背徳の味!旨し!君もビッグウェーブに乗れ!
昔、少年漫画(熱血青春サッカー漫画)で人間の目は前を向くためについている(大意)というのを読んで、子供なりに感銘を受けたが、ドラえもんから引用したのかな?(逆もあるかもしれないし、たまたま同じこと思いついたのかもしれないけど。)
悲報。
次元〜〜(泣)
RIP
令和に入って知ってる方がどんどん亡くなっていくのは私の年齢がもうそういう年齢ということか。
AIが描いたビートルズ。不穏。というか異世界。
菊池寛
鬼畜感
東北降り過ぎやろ。
ソースを一部だけ抜き取り騒ぎ立てる厨がいるので、嵌(
はま)らないように気をつけなくちゃ。
正論を声高に唱える人は正論を声高に言わなければならない心理状態に陥ってる説。
人に正義を振るうなら、相手に対して自己責任が伴うと思う。だから僕は子供の頃から自分の正義を他者に押し付けないのだ。たぶん本能的に。
ものを考える時に、自分の立場が支配的になる人は、ある意味利己的というか、人のために何かをするという傾向よりも、自分のために何かをする傾向が強いのだろう。
俺の方が弱い俺の方が弱いといいながら殴り合う社会。
俺が被害者だと言って殴る社会。
弱さは非常に強くて権力がある。アドラー。
麺
#飯テロ
SNSを見ていると自分を棚に上げている人がとても多いが、何処かで丈夫でよい棚売っているのかな?
仏陀もクソリプ的なことに悩まされたのかしら。
日本における糞という単語は、用法を含めてアメリカのshitに限りなく近づいたねと、信号待ちの老婆は言った。
宗教法人はじめたら儲かるのかなあ。
俺狡賢くないから儲からないだろうなあ。
人のアラはよく目立つが、自分のアラは気づかない。
これは誰もそうだし、自分もそう。
100倍くらい感度が違うって思っててもいい。
そのことを忘れる(まさか知らない?)から、人に腹を立てる(100歩譲って腹は立つものだが抑制が効かない)し、目糞が鼻糞に要らない喧嘩を売る。
自分のコップがいっぱいになりそうな時って、ちょっとのことでも許せなくなる。人の長い人生にはそんな時もある。
自分ごととしても他人事としても。
自分のロジックが否定された時に、人格を否定されたと考えるのは、感情的な人に多いのかもしれないが、論理的ではないし、機会損失という意味でもったいない。
社会人として未熟すぎる。
まあ、ロジックの否定にすらならない否定をされるとイラッとくるのはわかるけど。
否定、或いは、否定を否定するのも、その人の自由だが、それで誰が救われるのか?
救われたいがための否定もあるとは思うが。
否定したいだけで否定して何になるのか。
俺は基本俺を救いたいし、あわよくば、ついでに世界を救いたい。
天使や悪魔といったものは人の発明ではないかと思うこともある。
抽出或いは擬人化された概念による殴り合い。
普通しないこと(マナー違反)をする人が出てくると、普通の人には不要なはずの規制ができて世界が窮屈になっていく。
わたしも経験があるが、俺だけ何でこんな目にと思って周りを恨めしく思っている間は、残酷だがむしろ不思議なくらいぱったりと救いの手は現れない。(自らを絡めとろうとする罠は現れるかもしれないが。)見事にどんどん孤独になり孤立していく。
その思考を捨て去ることができるとはじめて光がさす。
神さまがいるかいないかは知らんけど、天は自らを助けるものを助く的な縁起というものは、長く生きていると経験するものだ。
ルサンチマンを自ら放棄できたものだけが快を身にまとうことができる。
人の足りないところを見た時、攻撃したり足を引っ張ろうとする心には、抑制を効かすべきであろう。反省もこめて。
もちろん、害があると感じるほど酷い人の意見を目にしたら、何か言いたくもなるのが人情だろうが。
しかし、対立するにしても案外きっかけはより良くしたいって気持ちだったりする。
それならば、そのより良くしたいということに対して、自分がしているアプローチは最適かと、振り返る時間を取ってもよい。より良くする目的から外れていないかチェックするのも役に立つ。
そして、人は変われたらそこには尊重すべきものがあるし、変われなくても生きることは許されているのだろう。
不都合なことに目を背けても、状況は変わらない。
麺
人事は誰かの都合で決まる。
人事上の問題は当事者を含むネゴシエーション上の問題が8割。
知らんけど。
家族という言葉の入ったニュースすべてに統一協会の関与を疑う癖ができてしまった。
内閣改造。
やっぱり安倍派がなあ。
自民党、統一協会以外のカルトの匂いもするねんな。
大学設立なんかもあったし。
今後も比例で自民党に入れるとカルト議員当選しちゃうのかなあ。
2022年8月NHK世論調査より
疑念を持たれないように注意。みたいな言い方、政治家(特に自民党)は好きだけど、取りうる手段として、疑念を持たれることをしないことも、疑念を発覚しないようにすることも含まれるし、しかも注意は処罰されることを約束してないから手放して納得できないよね。
こういう逃げ道を使う言葉ばかりだよ。注意深く聞いてみなよ。
政治家には気を許せないなって思うから。
安倍晋三に一つ敵わないな。と思うことを挙げるとしたら、対面において味方とすべき相手の機嫌を取るのがものすごくうまかったことだ。これは否定しない。
子供時代から、他者に対する、そういう意味での政治性に長けていたのであろう。
それであるからこそ、その外交的才能に対し、統一協会との蜜月が恨めしい。
もちろん、1国民としての自分の立場からだが。
右に叩かれる自民議員は信用できるってこと?
複雑すぎて。
もう今、右翼と統一教会が完全に区別つかない。
トランスジェンダー問題、とりあえずトイレのことは据え置きにした方が、どちらにとっても話が早いのではないか?
平成にタイムスリップしてミヤネ屋がウケていると言って果たしてどれくらいの人が信じてくれるだろうか。
人間うまくいかないのは、能力とか努力とか善悪と言った問題というより、ハマるかハマらないかという、時の巡り合わせみたいなものもあると思う。
三国志なんか読むと何を今更みたいなことかも知れないけど。
カルトと宗教は、道徳上でも、倫理上でも、明確に区別すべき(信者以外(或いは信者自身)へのデメリットが大きいから)との私見ですが、宗教及びこれを模倣した何かが社会的に影響力を持つほどに拡大するには、権力またはその思惑に都合よくハマったという一面はあるんだろうね。善悪は置いといて。
カルトでもマルチでも。
「喜んで搾取される人を作る」
ってこと自体がとてもまともなことには
思えない私は常識に捉われているのでしょうか?
セミナー→商売
と薄めていくと、人が喜んで金を出すのがどこが悪いという話になり、どこが問題なのかを丁寧に言語化する必要は感じますが。
詐欺というものが犯罪と認定されている以上、どこかに有害とみなす線引きはできそうですが。
それには詐欺の上位概念を理解する必要があります。また、近年、詐欺の凶悪化が進み、罪の軽さが適切なのかというイシューもあります。
専門家諸兄、ご検討ください。
(詐欺の刑が軽いのは第三者組織みたいなのが関与せず罰を決めたからだと思う。政治家は嘘をつくからね。昔からそうなんだと思う。)
視聴しました。ありがとうございます。非常に興味深い分析でした。もちろん私は彼ほど不遇ではないのだけど、彼の抱えた「複雑さ」には少しシンパシーを抱きました。彼の事象に対する心象は全て彼の運命的な立場から導かれたものの気がして。それが彼にとって支配的すぎたのかな。
本来強者にカテゴライズされる目論見の人が社会的弱者に陥り、一般に弱者と呼ばれる異質のものを"そいつが自分を不利益にしている原因"と憎む。トランプの周りでもよく見られた現象。
立場からの極化したイデオロギーへの加担。その呪縛から自由になり全体が幸福に向かう方法はないのか?
右翼も左翼も政治的で徒党を組むんだよね。
徒党を組まない個がどう自分の立場を向上させたら良いか。
何か新しいやり方はないのか。
麺
右の人、左の人に限らず、何でもカテゴライズ教の人とは、建設的な話がしにくい。対立に持っていくだけで、落とし所を見つける気がない。
何事も自分(ら)の立場と意見を100%正当化しようとする思想にこそ良識ある人々が辟易していることに気づかない社会派の皆さん。極論に夢中で身内の意見しか見ていない。
カテゴライズって、強者(第一極)は政治的に利用するし、弱者も多数派(第二極)は利用して反発するけど、その二極から溢れたもの(第三極)には迷惑でしかないという話。この時第三極のうち、第一極に属性が近いもの(第三極a)は第二極を攻撃しがちで第一極には都合が良いという構図。
第一極、第二極、第三極a以外の人間はどうしたらよいのだろう。
また寄り合うのか、個として対峙し続けるのか。何れにしてもこれまでの情勢は不利。(実際には案外数も多い気がするし恐らく知的な人が多い気もするのだが。)
インセル(男性弱者)というものもフェミニズムの上位概念からすれば共に救われるべきものの気がするのだが。
排他的に己の立場(属性)のみを主張すると、諍いが多くなるのかな。
上位概念でものを考えられる人が増えると良いのにな。或いは、aとbとcという問題がある時、全てを包括した解決を図れる人。
人が人を許せるか。は、その人の主観の問題であり、これは、幸か不幸か微妙だが、多くの場合、社会で憎む人が許されるか。とは状況が異なる。
人は勝手な生き物だから、これに腹を立ててカリカリすることもあるだろうし、だからこそ人は、例えフィクションでもヒーローというものを愛する。
ヒーローとは、敵わぬ正義のための発明である。
人は敵わぬことが多いほど現実に夢を見る。
夢を見ることもできない現実。というのは、地獄としては浅い地獄だと思う。
好むと好まざるとに限らず、それは現実に対応できているということだから。
極限まで精神を研ぎ澄まし続けると人は狂う。或いは研ぎ澄まし方が悪いのかもしれない。水の様に澄んでいくことと調和していくことは必ずしも相容れないものではない。自然からかけ離れた精神は拠り所なく彷徨うということ。
若い内は嘲笑するけど、分別がつくと嘲笑はしなくなると思う。
自分のことも人のことも想像できない状況じゃないと、とても嘲笑などできないものだ。
麺
人には、何を考えているかなんてほんとに伝わりにくい。深い話し合いで本気で伝えようとして伝わらなさを身に染みたことはないだろうか?
ツイッターなんかでいいねされるのも、相手がいいねと認識した、それはサンキュー程度のことで、ほんとに通じたかどうかなど考えだすと病む。
相手が何を思うかは相手の問題であり、相手の認識をコントロールしようとする厨はいるかもしれないが、相手の認識はそもそもこちらのテリトリーではないのだ。
自他の境界の区別がつくとは、そういうことをわかっているということで、その上で一旦そんなことを忘れて共感ごっこをしているのである。
共感とはシンクロであり、自分の持っているものが相手に届くのではない。自分の何かが、相手の何かに共振し、相手はその自分の中にある共振したものを感じているのである。そして共振した自分の感覚、例えば痛覚の深さによって、その人の気持ち、例えば痛みに思いを馳せるのである。
この様に考えると、ほんとに人が理解しあうことなど、原理的に不可能であり、人は絶対的に孤独と思うのも当然の帰結であるが、その上で他者にシンパシーを抱くことにこそ人間というより動物としての性(母性とか父性と言った意味の)を感じるのだ。
まあ普通、人はここまで考えずシンクロする。
民主主義においてもそうだが、多数派の意見は通りやすい。しかし、多数派が必ず得をしているかというと、グラデーションがある気がする。つまり、多数派の上に君臨するものが1番の得をするのである。多数派の上に君臨するものは既に多数派ではない。
すると少数派が勝つ知略も見えてくるかもしれない。少し嫌らしい話だけど。
目まぐるしく社会のイベントが展開していくな。
アメリカが台湾を訪れることが高いハードルであり続けるより、既成事実になってしまった後の方が良い気もしたり。
アメリカ人が台湾を訪れたくらいで軍事攻撃したら、そもそも中国に立つメンツが無いのでは?
露中、北朝鮮について非西側諸国からの言及が無いのは自国にとって害(悪影響)が無いからかな。それより西側諸国の言動の方が自国の利害に影響するから西側諸国に反対したくて同じく西側諸国に反対する国に同調すれば都合が良いのかな。その国がどんな国かは関係なくて自国の立場のプラス材料になるか。
有事になったら円を買え。内容は問わない。という機械じみた何かがあるのかしら。
民主主義という時、私が発言する時の定義は、歴史や政治にほんとに詳しい人からすると、違うとか甘いとか思うかもしれないが。
あくまで、国民の権利を主張するものの立場から、私は意図的にも感情的にも論理的にも発言している。
酷すぎて見てられないだけで、基本政治の話などしたくない。
凝り固まった思考、政治的論法は、ユーモアを持って破壊していく。
今日も一日
いつの間にか眠っていた。本格的に寝る前に寝ながら頭に浮かんでいたことの断片をメモしておこう。問題の捉え方。ここに何か注意点、或いは、ヒントが?例えば、全体の問題は、個別のイシューの総和であるか?ということ。認識はどの様に統合されるか?
興味本位の罪と無邪気さの罪は似ている気がする。表面的にしか捉えてないけど。
ねぎ焼きスジ。
人が人に禁欲を求めるのがどうも好きでない。さっきも言ったように(ここでは後述する)禁欲も欲望と思うから。要は禁欲という欲望を押しつけている気がする。
欲望の押しつけなど鬱陶しさしか感じない性格なのだ。
頭でわかっていても難しいことはある。
・感情として咀嚼することが難しいこと
・習慣化が難しいこと
・やり方を変えると生活(特にお金)が困りそうなこと
携帯の写真を整理しかけていたが、色々と身の回りのものをそろそろ整理しようかという気になってきた。しかし、断捨離と豊かさって気をつけないとトレードオフみたいになるから注意。
眼鏡が壊れてjinsで同じやつをネットで注文。
レディメイド未来の音楽シリーズ7”編 セカンド・シーズンは、こいつだけ購入しました。
#なうすぴにんぐ 。
明石だこ。スーパーで安かったと言ったら、奥さんが買ってきて調理してくれた。感謝🥲
なうすぴにんぐ。
DJしてたから1曲だけ良い曲が入ってるLPもよく買ったけど、なかなか聴かなくなるねえ。ミキサーで2台ターンテーブル繋いでた時はまだ聴いてたけど。トータルで聴けるアルバムを多く聴くね、やっぱり。
大瀧さんはファーストも好き。
指切りは特に。
松本隆さんの歌詞もアレンジも完璧。
ガーン。今更かもしれないけど。
SHURE 交換針 フォノグラフ カートリッジ用 N44G
って、とっくに生産中止なのね。
買っときゃ良かった。
これ買おう。
人と欲しいものが被らないのはありがたい。被らないから交換が成り立つ。被ってばかりいたらレア物はほんま金持ちしか手に入らないか逆に皆持ってる汎用品ばかりになる。被らなすぎるのも需要が少なすぎて生産中止とかかなわんが。自分で作るしか無くなる。ほどよく愛好者がいるくらいがちょうどいい。
奥さんにはレコード買ってなかったらお金困ってなかったのにと言われるが、奥さんもあると使おうとするし(無駄なもの買うわけじゃないけど)、こんな風にお金使えない時レコードこれだけ楽しめて全然後悔する気にならない。まあお金ほんまにきつくなるのは退職後やけど。働くしかない。
確かにうちにレコードは多いのだが、40年買い続けていることを思えば常識的な数です。
明日から薬局で15%引きのチケットがあるので今日はトイレットペーパーとシャンプーとボディソープを買い控えたくらいには節約してます。
大きな声では言えないけど、小さな声では聞こえないんだな。
会社に置いてた本捨て切らずにいたけど捨てよう。
何が幸せかという価値観とは別の話だけど、楽をして甘い実だけを享受するみたいなことって、何だか見落としてる穴(欠点)がありそうな気がするね。
エネルギー保存則に関わるような。位置エネルギーと運動エネルギーの和は変化しないみたいな呪縛。貧乏性かな?
家族というものに対する幻想というもの。
わたしは両親の愛情に恵まれた。だからこそ個(自分)というものを大事にできた。この点だけは本当に恵まれているし、だからこそ、逆にそうでない人の抱えてきた気持ちをほんとうには理解し得ない。
だから統一協会のような偽の家族に信者が求めることなど、わたしには真に理解し得ないのだ。
ただ、本来自分が望んでもいない思想を植え付けられるということに対して、わたしは人の何倍も恐怖するのだ。
僕が僕であること。これがわたしにとってとても重要なことだったから。
聖人が私を滅するというのも私にはわからない。そこにはそうしたいという私があるのではないか、つまり、アドラーで言えば私の目的があり、私の行動原理に基づいて滅私している、意地悪な言い方をすると、そうしたい欲望、或いは、そうすることで欲望を叶えているのではないのかと思ってしまう。
言ってしまえば、禁欲も欲望ではないかということ。
自由を愛することとは、宿命的に、自らが強く生きることを選択することだ。
知らないふりをしようとも、弱くては自由を勝ちえない。
わたしの中には、老人のように老成した部分と、青くさいガキのまま未熟な部分が同居しており、世間一般の人から見ると奇妙な感じがするかもしれない。
なるようになってしまったわけだから、ここから引き受けて今日を生きるしかない。なんて言ってることすらガキくさいが半分誰にともなく言っている。
ホイル焼き。
精神論だけの話ではなく、体力がなかったり体が弱かったりすると、普通の人が当たり前にしているようなことでも苦痛を感じやすい。やり過ぎたらほんとに疲れてしまうし、かと言って休ませてばかりいたら余計に体力がなくなってますます何かするのがしんどくなるスパイラルである。
若い内は基礎体力があるのでそんなに問題はないだろうし、多少自堕落でも何とかなってしまうものだが、50も過ぎてくると自分を整えていかないと、ほんとに動けない日が来てしまいそうな切実さを帯びてくる。
ものすごく個人差のあることとも思う。
わたしは子供の頃から人より体力が無かったからか、10歳以上年上の人が感じているようなことを、既に感じているのかもしれないが。
これ、たぶん女性もきついのでは?
人生後半、気力(から体力をつける)勝負になってくる。
これだけほざけるなら元気と思うかもしれないが満身創痍コーテルイーナーホーである。
麺
何だかんだ愚痴をこぼしているが、お子さんのいる家庭はほんとにどないかするしかないわけで。それに比べると甘いことを言っているのはわかっているし、子供を育て上げた人には、絶対敵わない部分のある人生だと自覚している。
けれどまあ、自分のつぶやきだし、あれこれ言ってしまうのよ。誰も甘やかしてはくれないから。
確かに歳を取ると、その場で否定することを言ってくれる人は世間からいなくなってくるし、それもあって、メンタルが自分が打たれることに対して耐性が無くなってくるので、自分から柔らかな強さみたいなものが失われがちである。
うちは、奥さんが手厳しくて、言いにくいことも言ってくれるのを有難く思わなくてはいけない。嫌味じゃなく。
人の気持ちなんてなかなかほんとにはわからないから。だから大切な人の話には素直に耳を傾けた方が良いし、伝わる言葉を模索し続けることは無駄じゃない。
最後だけ見れた。加藤さんの話、良い話だったな。秀でたお箱(18番)で勝負しろっていうの。
全編また見れたら見ます。
ありがとうございました。
-僕たちは明日以降で本気出す
二極に分断されるから諍いが起こるのであって、もはや1人1人というところまで全員が個に回帰してしまったら、新たな世界線が見えないか?
個への回帰と有機的な他者へのつながりは両立すると夢想する。
この世の事象を経験し体感すること。事象には他者との触れ合いも含む。
これが僕には足りていない。1人で空想している時間が長すぎる。
まあわたしは自分の頭の中で考えをぐるぐるとこねくり回しているだけのつまらない暇で退屈な男だ。これも言い訳である。
夏はチャイラテ。
遂に読みはじめた。アドラー心理学は時折目に触れることもあるがちゃんと読んだことはないのでとても展開(理論)が面白い。出だしの目的論のところでいきなり頭がぐるぐるしている。折も折、安倍晋三銃撃事件が原因論の典型に思われる中で、今この本を手に取ったのは、私に新しい視野をもたらしそうだ。
善とは。為になる然るべき理由。
メモメモ。
変わらないという決心をしている。
ま、そやろな。
独り言。
アドラーのいう目的論は、わたしの言う、人は行動原理に支配される生き物ということと矛盾しない。
哲学的な正しさというか、正しさっていうと違うかもしれないけど、思想のブレなさ(完全さ)って言うのは、対話の中で無いと、穴や弱点に気づきにくいかもね。
まだ読んでる途中で思考はまとまってないのだが、嫌われる勇気を読んでいると、自らが変わらないことを決めて、自らが変わらないことを目的として、社会に不満を言っている人が多いのかも。
建設的になる訳がない。
もちろん、私自身も不満はあってもやり直しが難しい年齢だ。変わらないことを選択していると言えば選択している。5年間くらいだけのことを考えれば今より稼げる仕事はない。家族もいる。
ただ、ゼロと100の間にある、もう少しマシなことを探している。
読み終わりました。
1,2割消化不良だから読み返すかも。とりあえずキーワードをメモ取りつつ。
アドラーによると、①人は意味づけした主観的な世界に住んでおり、目的や主観は自ら選び直すことができる。②共同体にとって有益と思えたとき、自らの価値を実感できる。③幸福とは、貢献感である。
ご時世なのでカルト的視点から見ると、目的や主観を他者に意味づけされるヤバさ。他者に意味づけされた主観で②③を感じたりするんでしょ?
自分への回帰もあてにならないなら、より大きな共同体の声を聞けるかどうかしかない気がするけど、クローズドな世界にいらっしゃるわけで。
救えないよね。
意味づけというか、何を主観に乗っけるかってことが重要であって。
まあ、カルトの人達は、私にとって、他者の課題なんだけど、根深いな、と。
生きていたら、それだけで、誰かに憎まれる可能性がある。
しかし、それでも自分を肯定しなければ生きていけない。肯定に根拠など無くても良いが、逆に盲目的な肯定であってはいけない。何処かで足をすくわれる。
人は(自覚しているかはともかく)目的のために行動を選択しているというアドラーの立場に立ってみると。
正しさというのは。目的を果たすために使うのだろう。つまり正しさは手段の一つである。
正しさを目的とするとわけがわからなくなる。
もちろん正しさゼロで目的にたどり着いたら歪むだろうが。
もちろん、わたしも目的のために正しさを使うことはある。
テキストにおけるコミニケーションではロジカルに正しいことも重要だし。
しかし、対面におけるコミニケーションで正しさを全面に出すのは、胸ぐらを掴むのと同じくらい喧嘩になりやすい。
誰かにとっての正義は、えてして、誰かにとっての悪である。
正義を行使するものは、恨まれる覚悟や自覚があっても良い。無くてもよいが誰かに恨まれているだろう。
もちろん数式などにおいては正しい数字が求められるが、人間関係における正しさなど、ファジーな方が良いのだ。
小さい気に食わないことに人は囚われるし、私も人のことは言えないけど。
その小さいことに囚われて、大きな大切なものを失ってしまったら、それは何だかなって。
守護霊さんも地団駄踏むよ。知らんけど。
多様性が嫌いな人って。
たぶん多様性って言葉の傘の下に、自分が存在を認めたくない人が含まれるのが嫌で。
この反感に対し、別の、或いは、同じ強い感情が近づいてきて不協和を増大する。
それならほんとに全ての多様性を認めるかってとこが、何回も言ってるように、人間の命題。
無条件に多様性を認めろってのも能天気か逆に政治的で。ほんとに利害があったり、犯罪を犯されたらその人にとっては許すってとても難しいから。
でもそれでもまだ多様性を考える想像力があるかということ。
共存はできなくても存在は認めるかとか、敵でも尊厳は認めるか、とか。
ここんとこをずっと考えてる。
共感を求めすぎるから人は孤独になっていくのであって、違う存在として愛した方が幸せなのではないか?
言葉は時に足音のようである。
時間を微分していった一刹那に、熱や、鼓動や、生きてることの全てや、永遠さえを感じることも特に若い時には大切だけど、時間を積分していった上での納得感みたいなものも歳を重ねるほど大切で。それを豊かにするには、日々を大事にした方が良いと思うんだ。
人は敵をつくる。
この宿命から逃げられるほど私は幸運では無いかもしれない。
そして敵とは共に暮らせないと思う。
しかし敵にも尊厳はあると思う。
互いの領域を侵し合わずお互いに存在してはいけないのか?
私はこの様な夢想家だ。夢でも見なければこの世は悲しい。この夢を見るのは私の目的なのだ。
もちろん、これは根底にある理想だ。
そうそう処理できる感情ばかりで毎日を生きているわけでは無い。
ツイッターでは軽々しく死ねということもある。
矛盾を内包している。
そんないい加減なものだ。
人間なんて。
そんなもんだ。
武装するな。
人間に矛盾するなというのが無理。
矛盾を内包(許容)しない思想(物語)に果たして人は耐えられるのか?
ほんとに人生うまくいかない。
うまくいかなくて頭打って人は生き方を学ぶという意味で俯瞰的に見るとぼちぼちうまくいってるのかもしれないが。
怒りや不平不満を。
吐き捨てても何にもならないわけで。
かと言って溜め込んで我慢していても体に悪くて。
じゃあどうしたら良いか。
少なくとも僕はずっと考えてる。
そうじゃない明日にするために。
もちろん。
吐き捨てることも、溜め込むことも、あるんだけど。
違うやり方はないかって。
ずっと考えている。
人は(人に限らないが)もっと幸せであって良いと思う。
自分の幸せと、大切な人の幸せ、そして他者の幸せ。これらは必ずしもトレードオフでは無いと思う。
もちろん各人が誰に幸せになって欲しいかは濃淡があるものだろうし、私にもあるけれど、世界の幸せの総和が大きくなれば良いのにと思っている。