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つぶやき2023.2.27-3.12

自分が一旦信じた物事を否定するのは自分を否定するようでそんなことは認められずどんなに酷い話でも肯定するしか頭のない自己肯定化に毎日一所懸命な皆さん、おはようございます。

力があるもの=正義ではない。
少年漫画と世の中の違うところ。

世界がもし100人の村だったら、語られていることは民族学的にありえない。

リスクを取るっていう場合のリスクって、責任という言葉と非常に近いと思うんだけど、意識してない社会人も結構いそうに思う今日この頃、いかがお過ごしですか?

そう言えば、出勤して昼メシに坦々麺を食べていたら、坦々麺に被曝した。

ひさびさ辛ラーメン牛乳半分仕立て。
#飯テロ

我が家の定番。

身から出た錆と干からびた餅で韻を踏める。


12年。干支が一回りし、ウィスキーも熟成する年月である。犬猫ならシニアになっているし、633の学校生活さえ始まって終わる。

人が死ぬのは身近な人にはきつい。
そんなことも想像できない人間にだけはなってはいけないと思う。

しかし。いくらなんでも、黙祷させていただきます。は変。
なぜ黙祷する行為を他人に謙る(へりくだる)のか。
色んな人が、させていただきます。への違和感を唱えてるけど。
なぜ、するつもり120%なのに謙ってお伺いを立てるのか?というとこが責任感ある人にはもどかしいとか潔くないとか自己責任感無いとか。
或いは、節回し自体がくどくて腹立つ。
とかあるのだろうが。
まあ、言葉というものにこだわりのない人からすると、「言っときましたからね。」という便利な言い回しなのかな。
あまりにも沢山の面倒くさい人たちに晒される社会だからね。
改めて黙祷。



「日本で一番権限大きい人なので首相目指した。」
アカンはずやわ。


さすがに最近酷いんでブロックした。

まあ、人は一旦嫌いになってしまったら嫌なところばかりが気になってしまうセンサーを備えている。としか思えない。

弱り目に祟り目といいまして、不幸は弱っている人のところにも遠慮なく土足でやってきます。
なんなら不幸は束になって重なります。

運不運は防げるものと防げないものがありますし、こちらの都合にはお構いなしのものです。
ついてないことが重なってジタバタしてもしようがないならじっとやり過ごすしかないです。というか淡々と日々をこなすしかないです。幸運も不運も綺麗事じゃなく確率的にずっとは続きません。貧乏が不運と思ってたらそれはわかりませんが。お金の神様は担当者が別なので。
まあ、不運慣れするのも逞しくなる一つの方法ではあります。寄り添わずに冷静に分析すると。人は知らないものに不安になる生き物なので、知っている不幸には(嫌でしょうけど)不安にはなりません。
人災は、子供でなければ防げるものかもしれません。逃げられるものなら逃げましょう。一人で抱え込むと逃げられるものも逃げられなくなるかもしれません。
人災で怖いのは逆恨みにしても相手の感情が全く収まっていない場合です。理不尽でも落とし所を作れる余裕があるならそうできると少しは危険が少なくなるかもしれません。


お金の神様は担当者が別と書いたが、この縦割り行政が人間界を苦しめる要因になっている。という妄想で1話書けるのでは?

金持ちの金を持ってるとこだけが羨ましい。金をくれ。

 

観客としての自分にウケるものでなければ、人の心を動かすわけがない。
もちろん自分だけがウケている場合もあるのだがね。

内気だった彼だがある時意を決して道ゆく人に思い切って声をかけてみた。
「あなたは神を信じますか?」
ザビエル11歳の時だった。

- 宣教師びんびん物語

良介は目を細めながら遠くを見つめるように言った。
「もう遅いのや。」

その時良介のガラケーが男女7人夏物語のメロディを奏でた。

「まじウケるんですけど。」
クーラーの効いていない部屋で若作りした濃いめの化粧の母親が言った。
この時良介はこの家を出ようと決心した。

おりしも時は平成。今では信じられないが携帯の着信音を有料で何件もダウンロードして喜ぶ時代だった。良介14歳の夏だった。

- 男女7、8人夏物語

日本においてこれだけ少子化が進んだのはこれだけ科学技術が発展した社会でもなぜ子供が生まれるのか解明されていないからだ。嘘だと思うなら君のパパとママにどうしたら子供が生まれるのか聞いてみたらいい。きっと話をはぐらかすだろう。誤魔化しているのではない。本当に解明されていないのだ。

そこのけそこのけあそこの

議論が必要。
と言った時に重要なのは、それで議論したのか。
では?
検討を重ねる。
でも同じで。
まずは、検討を重ねたのか?
と。で、検討を重ねた結果、どやねん?
と。
そこまでセットでは?

忙しい時は猫の手も借りたいとかいうが、ひとでを探すなら海の中だ。
深刻なヒトデ不足というが、海ではイカナゴの漁獲量の方が減ってると言う。

2035年長らく続いた険悪な日中関係はようやく改善し友好の証しとして2頭のパンダが贈られた。パンダは全て中国に返還されていたため初めて目にする人も少なくなかった。日本経済はV字回復こそ見せなかったが2頭のおかげで人々はM字開脚を見せた。2頭のパンダの名はインリンとジョイトイと言った。

#なうすぴにんぐ


内田裕也じゃないがファッキンと言いたくなることで世界は溢れている。
人類は全く俺には信用が無い。


アベノミクスが成功レベルと思ってる政党に任せておいて何も良くなるはずないのでは?

アベノミクスの1番悪いところは安倍晋三の名前にちなんだことである。

変なネーミングにしなかったらもう少し客観的でまともな経済分析ができたのでは?(例えば、どっち派からみても)

なんやねんアベノミクスて。
ネーミング、アホ丸出しやないか。
というのがまずある。

クールビズも1番涼しいのはネーミングの寒さ。

ネーミング悪いものって、それだけで悪印象で、ケチがつくとその記憶が引きずられるから、名前って大事。


安倍晋三が嫌いだったのは、嘘の正当化が過ぎるところ。
今日の日本にめちゃくちゃな悪影響を与えたと思う。
政治家には慕われていたのは、嘘つきは嘘つきをさほど気にしないからだろう。
まあ、嘘つきのとこには嘘つきが集まるのが自然と言えば自然な流れだね。

アンチ安倍晋三は、生真面目な正直者(自己認識において)という気がする。

アカンやつは言ってもアカン方へアカン方へ行く。
不思議なくらい。
利己主義が過ぎる人や、自己愛が歪んだ人も、自己肯定化の沼にハマってしまうと、このパターンで悪手しか打たんようになる。

自分を庇おうとしすぎると、その視点でしかモノ見えなくなるよね。
結果、客観的に全体が見えなくなって、悪手ばかり打つ。
視座が自分にしかない人って周りを幸せにしない。
自分てのが集団て場合もあるけど。

身を庇おうとして、身を庇う効果から最も遠い手を打ち出す始末。

人にどう見られるかを主観的には気にしてるくせに、客観的にどう思われるかがわかんないんだよね。

自分のことしか考えてこなかったから。

息を吐くように平気で嘘をつく人間というのは一定数いるが、その言動の情報が一旦集まると、あちこちで話の筋がおかしい(つまり嘘をついている)ことが判明してしまう。
普通の人ならそれで凝りそうなものだけど、それでもまだ嘘をつくからねー。

最初は自分を守るためだったかもしれない嘘が、いつしか自分の利益のため或いは他人の不利益のために嘘をつくようになり、それで実際に得をしてきたのだろう。
いつしか嘘をつくのが当たり前になり、自分を庇うために正直に謝ることすらできなくなる。

そしてまた嘘をついて信用されなくなるリスクより、その場しのぎの嘘をつき続ける。

そういう人だとバレバレになってもやり方を変えられず、人生の罠に落ちる。


高市早苗は客観的にみて、安倍晋三ほど人望も可愛げもないから、どこまで庇って貰えるやらね。

見解の正しさはどうなのか知らんけど、プロセスとして強要しているのでは?
ま、その強要が今まで当たり前だったんでしょうけど。強要か?と言ったら強要では?


政治家は嘘をつくのも仕事の内みたいなとこは実際あるけど、大義の為であって欲しいのが人情だよね。嘘の目的や質や程度が酷かったら、声上げていいと思う。
政治家視点でもの言うあんた誰?って人もいるけど、わしら国民やもん。

筋の悪い考えの人は自己目的化するほど沼にハマっていく。
目的が大切なのは。ある程度有能な人が計画・実施するなら目的は果たされるからである。
目的が例えば利己や人への嫌がらせなら特定の者への利益や人への不利益が実現する。しかしこれは全体としては益が無いし一部の者には不満の種となる。結果目的を立てた者に批判の目が向けられる。
この様に筋が悪い話はことがうまく運ぶほど悪い結果となるのである。
ここまで言わないとわからないものだろうか。

メリットを受ける人のパイをできるだけ多くしないと、結局自分の首を絞めることになるのだ。


整合性が破綻した嘘つきほど、みっともなく惨めなものはない。
このカッコ悪さが堪らないから、わたしは洒落にならない嘘はつかない。子供の頃から。

他人をディスる人の周りには、他人をディスる人しか残らない。
そうでない人は、ディスる人を、人が落ちてくれないと自分が優位に立てない人、自分の価値を自分で高められない人。と見て、心の中で、はい。さよなら。する。

クルクルパーって。
死語というより新しすぎたのではないか。

感性というものは自分のものであって自分のものではないところがある。
自分のアンテナが繋がってない時には全くと言ってよいほど受信しないものである。

これ全然知らなくて今知ったんだけど。話題になってたっけ?
ロバートロドリゲスにジェームズキャメロンでめっちゃ興味引くんだけど何で気づかなかったんだろう?

alita battle angel

#なうすぴにんぐ
松江潤かなり良いのではないか。


右側リピートしてる。


自分に都合のいい話ばかり聞いてる人はその程度の人なんだな。って、見てる。

色々と言われたら腹は立つものだろうが一方で言って貰えるうちが華という言葉もある。
周りがイエスマンばかりで同調することしか言われなくなったとか、もう口を挟まれなくなったとか言うのは、楽かもしれないが、物事のトータルで言うと良い環境ではないのである。
水が腐るもと。
人間万事塞翁が馬。
人は自分に意見してくれる人を身近に持つべきだし、大切にした方がいい。
建設的な意見に限るが。

人は情報を自分の都合の良いように読む。
私自身、このバイアスに気をつけないと、こうした読み方をしてしまう時もある。
イデオロギー的な思想に汚染されている人ほど、この傾向が顕著だ。
せっかく新しいデータが示されているのに、自分の思い込みの焼き直ししかしなかったりする。

人間素直さがなくなると、成長が止まる。
生きる上で自分を信じることも大切だが、自分も含めて脳みそが考えることは疑ってかかるくらいの冷静さが必要だ。

ほら、そこのお前に言ってんだよ。

間違いを指摘されて腹を立てる小者はどうせロクな人生感じゃないしどうせ勝手に幸福感低いので、心の中で小人さんと名付けてればヨシ!

オバマはchangeと言ったが、変化に保守的な人は多いしさほど保守的と思ってない人でもイシューによってはおいおい辞めてくれよ。と思うものである。
changeには、何かを捨てることが伴う。
捨てることより新たに得られることが良いものだと思わない限り、変わりたくないと思う人がいても不思議はない。
changeにより、何が変わり変わらないのか、変わること変わらないことのリスクとベネフィットは何なのかを説明せずして、勝手に変えるとか不安になるなというのも傲慢である。
必要に迫られ変わらなければならない時もある。というか、見渡せば、毎日何かが変わっている。
むしろ変わらなければならないことの方が多い。
しかし、変われない人、変わりたくない人を置き去りにしない努力を、簡単に捨ててはいけないと思う。
世の中を変えたい人ほど、なぜ変えなきゃいけないかを示さなくてはいけない。
そこをすっ飛ばしてるのでは?
自身が変わり続ける人は、自分自身でこれを検討しているか、或いは、覚悟を決めて変化に飛び込んでいるのである。

夢の中では自分自身がありえへん行動を取ることもある。自分の脳が見させる夢なのに。起きている間は自分の脳をある程度コントロールできるが全てをコントロールできているわけでもないし。お年寄りがボケてしまうのも見ているので。この制御機構はそれほど信用ならないと感じている。
自分の脳みそを信用しすぎること自体が考えようによっては脳のエラーである。

便宜上人に任せることはあるが、リスクをとってでも部分的に任せることを決定しないと社会生活が成り立たないからそうしているだけであって。
家族でも無いのに100%信じるなんてことはありえないし、家族だって自分自身だっていつも正しいなんて思ったりしない。
君を信じていないんだとリアでわざわざ言うことはないけどね。
自分が任せたことなら、それをああだこうだ言うことも逆に無い。
逆に言うと100%を信じてないから、努力するんだよね。自分のことでも人のことでも、現在の自分にとって腑に落ちるとこまで。

優れた設計はわかりやすい。だいたい複雑な設計って、設計者が馬鹿(難解な考え方をする)か、何かを誤魔化そうとしてるんだと思うっす。


差別はよくないが区別は社会生活を営む上で必要であって。
LGBTの問題も、差別は良くないが、一定の区別につき検討を重ねることは必要になるだろうし、それは複雑化していく方向だから、ある程度知恵がいる。
結婚して団地に住んでも男性は団地妻にはなれない。
この問題はLGBTが進んだらどういうことになるのか。
話が複雑になるのはこれで察しがつくだろう。

共感を装いつつもシンクロしないものは信じられないというのは、少なくとも僕はそう。
共感型の人間はまた違うのだろう。
いっそ共感しないまま落とし所を探す方が潔いと思う。
いや、友人などの場合、全くシンクロしなくても好きということはあるか。
これは共感だな。哺乳動物的だ。
またその内整理してみよう。

僕などは臆病な哺乳動物なので本能的にシンクロ(共振)するかしないかの可変装置或いはオンオフの装置は自分の側に置いておきたい。
共感というのは人間的とされるがシンクロ(共振)というのは必ずしもそうではなくむしろ非人間的なものだろう(ある意味それも人間的だが人道的というのとはまるきり違う)


高度に発達した左翼は右翼と区別がつかない。


隣の客は柿食いたかったからよく柿食う客だ。
二兎を追うものは二兎追いかけたかったから二兎追いかけたのだ。 

少し前のですが、良質なメログルです。


欲しかった本、メルカリで売れてもうた。買うお金がないから仕方ない。
古書ってなかなか出ないからつらい。

貧乏こづかい生活がしみついて、イマイチなものを買ってしまうと後悔がすごい。
もっと気軽に買い物したい。
金をくれ。

お札の数の増やし方は知っている。
縦に裂くか横に裂く。
ちなみに小銭の数の増やし方としては、例えば100円玉を持っているとすると。
10円だけ使うと、5枚。運が良ければ9枚に増える。
内緒だよ。

コガネムシは金持ちだと言われますが、小金を無視しているようでは、財産管理がズボラで、長く財はなせません。
ほら見てみなさい。栄華を極めたコガネムシも、今では一文なしばかりではありませんか。


ウホホイ。届いた。(デシネさん、ありがとう!)

なうすぴにんぐ。


例えばこうして音楽を聴けるのも美味しいご飯を食べられるのも乗り物に乗れるのも人のおかげである。世界の半分はおかげ様でできている。
かと思えばあいつがいなければこんなことになってないとか理不尽な思いをしたり言われのない被害に遭うこともままある。世界の半分は糞ったれでできている。

鏡よ鏡よ鏡さん。この世で1番お鼻が長いのは誰?
ピノキオじゃよ。
そう聞くとダンボは耳をパタパタさせてどこかへ飛んでいってしまいました。
- 世界名作劇場

花粉症の症状がえげつない。
わたしは10代から花粉症で、毎日花粉症がひどいというほど重症ではないが、ニュースの花粉情報よりそこに寒暖差の要素が加わる日は酷くなる気がして、1年に数日症状が重くなる。そしてわたしのツイートの寒暖差にやられるフォロワーもいるかもしれないが、わたし自身が1番自分の寒暖差にやられている。

考え方にメリハリない人って、仕事できないんだろうなあ。って。

物事の再検討を迫られたり、やり直しになるのは、最初に打ち手としての可能性の全てをリストアップできていないからである。
いきなり各論について詳細検討をはじめる日本人が多すぎる気がする。細かい場合分けを詳細に検討しろと言っているのではない。上位概念で大きく分類するのだ。
上位概念から考えて、その手の実現可能性や最もメリットがある方法を検討すれば、初めからベストエフォートが引き出せる。
上位概念でものを考えることは、問題の本質的な解決に有効であるし、もっとも効率的だ。
休憩もせず働くことが効率と考えている馬鹿は仕事を指導するのが間違っている。


何を、こうに違いない。と思っているか。
経験値にもよりますが、それで知的レベル感がばれてしまうので。
物事の思考プロセスの多くは試行錯誤だろう。自分の頭の中で、イヤこれはそうじゃない、こっちだ。と、普通にやっていることだろう。つまり自分の考えを修復することを脳が合理的と判断している。
それなのに他人が誤りを修復するとこれを認められない人間がいる。解としての正解より自分の脳の正しさを信じたがる。しかし冷静になって欲しい。自分が時に間違った回答をすることは既に知っているはずだし何なら自分自身で修復しているはずだ。誤りを発見したのが自分か他人かという違いだけである。
真に合理的であるならば、間違いを正したのが自分だろうと他人だろうと、より合理的な解を選ぶはずである。
それなのに他人の解は認められないくらい君の脳は合理的ではないのである。
少しは自分の脳の不合理性を理解しただろうか?
わたしは別に答えが最適なら、自分の考えだろうと人の考えだろうと全く気にしないのである。
つまり外部の脳みそも、自分の思考システムの一部としているのである。
チームで働くというのは、1人で考えたことを誰かに命令するのではなく、このようにチーム全員の脳をシステムとして利用することである。(日本、或いは、世界をワンチームと考えるスケール感の人が出てきてほしい。)

このbotたくさん良いこと言う。

美味しんぼがずっと続いていたら、究極のコオロギ 対 至高のコオロギの対決が見られる未来もあっただろうか。


宗教上の理由によりコオロギは食べられません。


ジャークチキン。
激ウマ。


ブラッドオレンジを箱買い。

ブラッドオレンジ、ジュースに絞ると美味しい!

果汁がほんとに血のような色をしている。


最も夫婦仲の良い職業をご存知ですか?

正解は
左官屋(さかんや)

古今東西、お豆腐料理や大豆製品を好む女性は多いようですが、女性にウケる1番のポイントは何だと思いますか?

豆さ(まめさ)


人にいい意味で無関心な方が人とうまくコミュニケートできるのだろう。どうでもいいから拘らず話を流せる。逆にどうでも良くない(例えば利害関係がある)と自分も主張しなければならない必要も出てきて。主張が強くなりすぎると関係は悪化したりして。
コミュニケーションて非常に逆説的だったりする。

良好なコミュニケーションには気持ちのゆとりが必要。
良いコミュニケーションには相手を一旦受け入れることが好まれるが、自分に余裕がないとなかなか難しい。

嫌な目にあって、嫌な思いに囚われていると、ほんとに人相が悪くなってくるので。嫌なことからは離れないと、ほんと損する。

逆に、例えば金持ちのボンとかで嫌なことを避けられてきた人は、言って見れば険のない綺麗な顔をしているかもしれないが、苦労してないとそれはそれでトンデモなとこが隠れていたりする場合もあるからねえ。
表情もまた信用しすぎたらあれだけど。
歳取ると、顔はごまかせなくなってくるね。


わしも愛嬌が欲しい。
つまり余裕がなければならない。金をくれ。


子供なのでミックスジュースを飲んでいる。

ミックスジュースうまい!

わたしは割とズバッと目上の人にも(業務上のことは)遠慮なく意見を言うのだが、目上であれば人格ができているというわけではなく、それを心地よく思わないタイプもいる。
しかし、外部に指摘されて大問題となる前に、身内に指摘されて改善する方がずっと良いのである。
助かったくらいに思う方が物事を心得ている。
だいたい問題点について議論しているだけであって、問題を指摘されただけなのに人格を否定されたかの如く感情的になる人は、課題の分離ができておらず、賢者と呼ぶにはちょっとね。
しかし、世の中できてる人ばかりじゃないから、やるべきことをちゃんとするほど、こういうことになってくる。

ただ出世したいなら。他人をねじ伏せるか、或いは、人のモチベーションを上げるのが上手いのが常套手段だが(注1)。
仕事そのものを良くしたかったら、人に嫌われるくらいの覚悟が必要で、実際良い仕事にはそういうキーマンが関わっているのである。
注1: 課長くらいまでは単に管理思考だけの人もいる。


社長は偉いのかもしれないし実際偉いところはあるのだろうが世界が社長だけの村だったら飯も食われへんのだ。
別に社長に限った話ではない。大統領やスーパースターだって同じことだ。
この世界は持ち回り制で世の中の半分はおかげ様でできているのだ。
誇りを持つのはいいが驕りは見当違いだ。
特定の人に向けた発言ではないので念のため。

人生思う通りにはなかなかいかない。
思う通りにならない人生の中で色々と経験する。そこで七転八倒したり泣けそうなくらい困り果てたりこんな目に遭うのはわたしだけと思ったり。
しかしまあそうした経験がやがてあなたオリジナルのスタイルを作るのだ。つまりあなたを特徴づけるパーソナリティを。
経験をポジティブに捉えようとネガティブに捉えようと、そこで経験し何かを思ったり考えたり行動した先にしか今はないはずで。
無かったことにはできないし、それでどうするの?しか、自分にできることはないのだ。


幸せ不幸せというのは主観であり、主観だからその人にとって絶対的なものなんだと思う。
相対的に比較しちゃって不幸を感じている人もいるけど。

そもそも心に形はない。

正直も嘘も、それ自体の行為が良いとかいけないとかいうより、もし善悪がある(或いはわたしがつける)としたら、不幸になる人が出ないかどうかだと思います。
だから言わなきゃいいってもんでもないと思いますね。

今日のニャンコ

神さまがいないというのは充分ありうる。
一方で神さまみたいなのがいるとして、神さまが1人というか一つの人格(人じゃないけど)のみだというのも、自分が生きてきた経験からしっくりこない。
だから、西洋の一神教って言うのは、信じてる人をディスる気はないけど、僕にはしっくりこない。
数ある神さまの1人(人じゃないけど)が俺だけを信じろって言ってるだけの気がしてしまう。
日本の宗教には八百万の神みたいな観念があって僕はこれを好ましく思う。
新興宗教は一神教のパターンで、俺だけ信じろ。の世界だよね。俺はそういうの一切信じない。
俺だけ信じろの愛は嘘っぱちだと思う。
(しかも強権的になりがちだしね。)

人間は神を模倣して作られたを逆手にとると、完璧な人間がいないように、完璧な神さまはいないって方が、生きてきた経験からしっくりくる。
全知全能は人間のヒーロー願望が作り出したんじゃないかな。或いは恣意的なものか。
日本の神話の神様は、必ずしも尊敬しきれない人格(人じゃないけど)で、これも文化の違いというか。
僕は宗教っていうのは人間の作り出した文化だと思ってる。
仏様も、神様ってより、例えば死んだ人が生きてる人のために力を貸すみたいなファンタジーは人間味があって好ましいよね。
一方で老子や賢い色んな人が信じているようにこの世界が一種の調和のもとに作られていると考えるのもそれはそれでなきにしもあらずみたいな感はあり。西洋でも西洋の神様を綺麗な心で信じている人は神をその様な調和と結びつけていてその調和こそを愛と感じている気がするのですがどうでしょう。
人が神様を考える時、人は擬人化した方が理解しやすいと思うけど、擬人化が過ぎるんだと思う。だから、面白い文学も生まれたんだけど、一方で宗教的分断も生んだんだと思う。宗教の分断をしたがる人が多いけど、僕は僕なりの調和を持って、統合できるとこは統合できないかなって野心を持ってる。余計なことまではしたくないけど、最低限のレベルで。
救われたいとか、愛し愛されたくて神や仏を信心したくなったはずの人たちが、どうでも良い神様のディテール(言葉尻)に囚われて、分断する。その構造こそが癪で気に食わないから。
ほんとに人間が期待するような人格(人じゃないけど)の神様がいるとしたら、そんな分断は悲しいと思うはずだもの。
例え完璧じゃなくてもそういう神さまの方が僕は好きだしね。

大川隆法で大喜利する気は一切ない。


古来、首などの筋違いを起こすのは筋違いな考えをした時と言われています。
占いもげん担ぎも語呂合わせや無理からが9割。真実は知りません。
占いなんてものは当たるも八卦あたらぬも八卦とやってる方が言っていて信じた人に責任は転嫁されてますから。
信じたい人が信じると書いて儲かりまっか?

エビデンスがエビデンスがあ。言う人いるが。
そりゃ大切なことにはエビデンスが重要だし、無ければいけない領域の話もあるんだけど。些事にまでエビデンスエビデンス言うのは、こんなに経済の縮小した日本でそんなコストかけられないかもくらいの想像を働かしてみてもいいでしょう。もう貧乏国なんで。


毒殺って噂が噂を呼びますね。
1番噂される毒性物質は何かご存知でしょうか?
砒素砒素(ヒソヒソ)

妖怪も国際化すると例えば
ヌラリー・ヒョン
とかに改名するのだろうか。

ちょっと待ってください。を、妖怪用語で、一旦モーメントプリーズ。という。

勝って兜の緒を締めよ。
とか
情けは人の為ならず。
の本来の意味(誤訳じゃない方)とか。
最初に言った人には、どや?ワシうまいこと言うたった。というのがあると思うのだが、
2階から目薬。
とか
腐っても鯛。
とかその辺どうなんですか?
2階から目薬て。


理性的というか。平静な心で生きるのが上手くなった人は一部でクソリプラーみたいなのがいる一方で増えてる気がする。勘だけど。
そして、そんな人は、自分の直感もある程度大事にしてると思う。
まあ僕なんかもその傾向があるわけだけど、そこから推察するに、逆に動物的な本能は薄まってる気がする。

そう言えば、シャバランクスのキャッチコピーはモダン・プリミティブだったか。
それは1990年くらいの話だけど、その頃から時代のコンセプトなのかトレンドが変わったよな。と。

精神的には、プリミティブっていうか、本質的というか、根源的になってきた気がするんだけど、肉体が死に近づいてるイメージ。
肉体もコントロールして高い技術を発揮するプレーヤーも誕生してて、健康寿命も延びてるのかもしれないけど、原始的な勢いがない感じ。

これは自分自身に対するイメージを世界に投影しているだけだろうか。
野生というより、狂気は振り回す人は散見される一方で、原始的な魅力(それは例えばボディビルのような肉体とも違う)が失われてきた気がする。
日本が高齢化しただけですかね?

なんて言うんでしょう。
1/fゆらぎの話をしたことがありますが、命のゆらぎが足りない気がするのです。


うたた寝をしていた。
夢の中、飯田橋でご飯を食べようと店を探していた。
店名は(昔の)実際の店名だったが、目覚めてみると、街並みが飯田橋ではなかった。それは店を探そうとしても見つからないはずである。
(その街並みの一部は過去の夢にも出てきたような。夢って、夢の記憶が再利用されるような。)

わたしは東京で学生時代を過ごし現在大阪に住んでいるが、生粋の東京人も大阪人もわたしとはパーソナリティがだいぶ違うなと思う。(好き嫌いの話ではない。)
かと言って、地方にずっと住んでいる人ともパーソナリティが違う。
故郷を離れて暮らしてる人には皆この様なデラシネ感があるのだろうか。

サウダージはブラジルに特有な感情(感覚?)とされるけど、それに似たものは違う言葉で世界のあちこちで見られて。自分と世界との地理的な関係に色づけられた郷愁と捉えているけど。そんなサウダージみたいな感覚とデラシネ感の相対的関係って考察してみると面白い人には面白いかな。

健康志向のわたし。
トマトジュースうまい。

「子供たちもすっかり大きくなって。お前にもずいぶん苦労をかけた。」
「あなた。」
「わしももうすっかり爺さんだ。」
「あなた。」
「もう切れ込んだハイレグも着れやしない。」
「あなた!」
「怒った声も可愛いよ。いつまでもお前は可愛い。わしは幸せもんじゃ。」
「あなた。」

これが松吉と音声アシスタントアプリケーションとの最後の会話だった。

キン肉マンの連載が始まった頃には牛丼一筋80年だった吉野家も今年で創業124年になる。歳を取るわけだ。


えらい早くに目が覚めた。二度寝しても良いのだが。目覚める前のイメージが時計仕掛けのオレンジだったので幸せに二度寝できるだろうか(不安)。
時計仕掛けのオレンジを観たのは二十歳くらいだろうか。それから観ていないので今観たら違うのかもしれないがあんまり好きな映画じゃなかった。
ディバインの映画を観た時もそうだったが、要は、私の嫌いな二元論でモノを言うと、例えば体制側も反体制側も好きになれない感じ。
これって、世代的な感覚もあるんだろうか。時計仕掛けのオレンジを語りたがるのはわたしより歳上ばかりだったような。
時代的な感覚だろうか。或いは個人的な感情だろうか。
今の人はこれに似た感情や感覚を持つ人も増えている気もする。右や左というより、与党も野党も好きになれないみたいな。
映画を観るのに必ずしも共感は要らないと思うけど、勝手に感じるのが共感であって良くも悪くもシンクロ率か。
その点ジョーカーは先に進んだ時代の映画であった。
理性ではジョーカーに共感せずとも、どこかでシンクロする部分があるのだろう。
ある意味偏った作品ばかり挙げてしまうが、エヴァ以降感じていることかな。共感しないがシンクロする作品があることが自覚された。
そう。共感せずとも人はシンクロするのだ。
共感というより共振する。
面白いことかやっかいなことかわからないが。
その両方をわたしたちはこれからの時代でますます体験するのだろう。
勝手に感じるのが共感とかいたけど、共感にはポーズとして共感したように見せるというコミュニケーションもあるし、人によってはそっちの方が多いかも。

わたしの二元論嫌いも元を辿れば、子供時代から、マジョリティの意見も反対派の意見もしっくり来なくて、思いが溢れる経験を何度もしてきたからかもしれない。
要するに、わたしの立場の主張でもある。

まあ、無理に合わせるくらいなら、1人でいることをずっと選択してきたような。
これも行き過ぎては駄目と思うし。
100回目だが何でも匙加減こそが肝である。

そうなんよね。
多数派も反対派も相手が思うままにならないことが気に入らないってのをやり合ってる感がしてどっちにも冷めるのよね。


俺だけを信じろは、赤ちゃんの欲求と本質的に変わりない。形を変えただけで、元の欲求は、愛を乞うているのだ。
その自覚すら忘れている人さえいるかもしれないが。
人に命令するのは、本質的に、人への甘えから来ている。
赤ちゃんが気に食わないと言ってることと、ほとんど原理は変わらないのだ。
威張っている人は、赤ちゃんと変わらない姿を晒して、偉そうにしているのだから、ほんとに無自覚というのはこわいし、寒い。

わがままで自分勝手な人を嫌いというより好きと感じている人が一定数いるのは、脳が倒錯していて、その幼児性を愛嬌と感じたりするのだろうか。父性や母性も時にエラーを起こす。

仕事に基づく業務命令とは、契約に基づく役割等の範囲内でのプレイ(社会的約束事)であり、契約にないことまで命令されるのは越権濫用である。

マウンティングする人は、ほんとは人じゃなくて猿なんです。猿だから仕方ないんです。猿としての本能に抗えないんです。会社だったら、猿を会社に放った人事部(雇った人)が悪いんです。

とりのささみさん大好き。


ツイッターでは好き勝手言うけど、リアで人に禁止令を出したことは生涯で1度も無い。
子供がいたらどうだったかはわからないけど。

もちろんそんなできた親ばかりではないが、友達により親の足りないところを自分の中に補完して生きてる人もいる。これを人類補完計画と呼ぶ。

ドロシー・ロー・ノルトの言葉


自分を好きな人2割、嫌いな人2割、関心ない人6割とざっくり言われてるけど、ちょうど良いとこでは?
嫌われたくない下心もわかるが、好きばかりも自分が育つ機会を失うような(貧乏性?)。
それにあまり関心持たれ過ぎたら疲れるで。
好きや嫌いのクセが強いのも疲れる。
基本、疲れるかどうかでもの考える。わし。
特に20代の頃は、おしゃれとかは別にして、好かれようと前面に出るの無かったなあ。
後輩に隠れキャラ呼ばわりされたし。
小さくウケるくらいがちょうどいいよ。わし的には。

未来のことはわからないのである。
誰もわからない。
ただ過去の経験からこうなりそうということ(予測)はある。
想像できるこうなりそうに対して、準備をするとか、まあ何とか手を打てるかと皮算用して、最後は覚悟を決めてるだけですよ。
決断できる人だって。

こうなりそうを考えなかったり、そのリスクに対して、準備や皮算用も無く決断することを馬鹿と言います。
まあ馬鹿になるしかない切羽詰まった状況も稀に人生には訪れますけどね。トホホ。
それもなるべく減らせる人を堅実と言います。

botを見ただけだが、
あまりにも含蓄あるので
加藤諦三さんの本をポチッた。

自分のことだけやっててもうまく回る社会は悪意より善意のバランスが勝っている場合だろう。
みんな自分に精一杯なのかもしれないが技術がここまで発展した社会でそれをやると(みんなが人や世の中に無関心だと)世界のバランスが悪意の方に傾いたら立ち所に社会は崩壊するだろう。
谷川さんの生きるをもう一度読んで欲しい。
これに抗うには、善人一人一人が悪に注意深く生きるしかない。


今生まれたばかりの言葉には、赤ちゃんの首がすわっていないような、自分でも捉えきれていないものもある。
以前はそういう言葉を人に発することは控えていた。
でも今はその辺もういいかなとこだわるのをやめた。
あやふやでいいじゃんと。

強い人には強さを利用しようとする人が寄ってくるし弱い人には弱さを利用しようとする人が寄ってくる。
強くも弱くもないと利用目的の人は近づきにくいよね。
利用価値のある人間になるのも人生戦略の一つだけど、見かけ上の利用価値を下げるのも一つの戦略になるよね。
人それぞれ。


又吉の生まれた里では古くから「だるまさんが転んだ」の間に3回願い事を唱えるとその願いが叶うという言い伝えがあった。
又吉は機転が利くので友達に「今度俺もしてやっからよぅ。ゆっくりだるまさんが転んだって言ってくれ。」と約束を取り付けた。

友達が「だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ」
と言っている間に、遂に又吉は願いごとを3回唱えた。

「戦争が無くなりますように。戦争が無くなりますように。戦争が無くなりますように。」

そのおかげで日本は終戦を迎え今日まで日本の平和が続いたことは、神さまと又吉だけの秘密。

コオリヤマさん面白いよね。


武士やサムライがどうだったか知らないけど、責任逃れがこの国の国風では?
日本だけじゃないけど。

攻め方って言うのは千差万別のやり方があって、何なら攻めないって選択肢さえあるけど。
守る方は無くて済むことは無くて。馬鹿が多いから。
かと言って、守りにはコスト(負担)がかかるからガチガチが最適とも言えず。
守りこそ賢くなければいけないだろう。
定石も知って損は無いだろうし。知らんけど。
ノーガード戦法なんてものを思い出したが、一つの視点として、身軽さは守りに対して柔軟さを与えるだろう。

相手の骨の断ち方知ってる人には喧嘩売らないことだね。
身を切らせて骨を断つからね。
調子に乗って攻撃をしかけるとこわいよ。

訴えないでください。の人。

何遍も言うけど、人は自分が大切にしていることを踏みにじられると腹が立つ。
自分が努力していることを人が疎かにしているのを見るとイラっとしたり不快感をもつ。
自分もサボっていることは気にならない。
まあ勝手なのである。
こだわりが強すぎると、こうした面が短所になりやすいから。
歳取ったら余計な拘りを捨ててく方が生きやすいね。

生きてりゃ気に食わないことだらけと感じるかもしれないし、ソリの合わない人間もいない方が君大丈夫?と思うけど、人を責めることに100%時間を費やしてんなら、善悪というより時間の使い方としてかなりもったいないことをしていると思う。個人の感想です。


mastodonでも結局同じようなことをしている。

mastodonにニンパイさんのツイッター凍結のその後の経過情報が載っている。
ツイッターまじアカンと思う。

はい。

政治家が酷くても声が挙がらないのは国民の民度が低すぎてそれで丁度いいってことかな?
ごめんねえ、馴染めなくて。


馬鹿の世界じゃ馬鹿しか勝てん。
この星に生まれた時点でワシついてない。
みんなみんなわたしがわるいのよ。そしてあなたがばかなのよ。

油断大敵。は、ほんとだよね。
臆病が過ぎると愚かなことをするが、経験次第で根が臆病者の方が勝負強くなる気がする。もちろん肉体や体力分のハンデは依然としてあるかもしれないが。


届いた。a3聴いて購入を決定。


おまけ。
読み応えあった。



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