―今更明るいことを言っても遅いのか―
ずるずるのぐだぐだ、を自分に許した理由について。
私は本気を出しません。というか出せません。私が本気を出せるのは、目に写る人間全てが私より大したことのない奴に思えて仕方がないときだけです。やれば必ず結果が保障されていると、自分で思い込めるようなときだけです。
なぜって、もう傷つくのは嫌ですから。負けた自分、失敗した自分への嫌悪と憎悪は、私自身をも飲み込むほど凄まじく、冗談抜きで生きる力さえ奪いとってしまいます。
そのまま死んでもよかったんですけど、それは親に怒られ、泣いて止められるので、やめることにしました。
では生きるためにどうするか。建設的な方法として、本気を出して失敗しても傷つかないように心を切り替える? 御冗談。そんな器用な真似、このポンコツにはできません。
私の出した妥協点は、自分が傷つくことを避ける。本気にならず、のらくら命をつなぐということだけです。
傷つきながら成長するとかいう、わけわからん方法を試す気もないし、試せる気もしないのです。
試行錯誤、錯誤の二文字が私を追い込みます。法律上の錯誤と違って、事実としての錯誤は取り消せません。せっかくの貴重な私の生に、錯誤という耐えがたいものが刻みつけられるなんて、それだけで恐怖です。
かくて、私は本気でぶつかりません。
本気を出してこの程度という事実についてはどう考えるか?
しかしここでよく見かけるやつがあります。そう、本気じゃない、本気じゃないって言ってるけれど、実は本気でこの程度なんじゃないの。とっとと限界認めて本気になれるべつのことでもやったら。というよくある指摘です。
ああ、言ってしまいますか、それを。
ええ、そうかも知れませんね。というか多分そうでしょう。もはや、情熱なんて言葉どこにやったのか忘れて久しいのです。私は、自分が傷つくのを怖がり本気を出さない人、というポーズで、少ししか書けないことを正当化している真のくずということです。
そうなのかなあ。そうなのかもしれません。そうだとは思いたくないけれど、自己評価なんて当てにならないものです。
でもだとしたら、どうすればいいのでしょうか。迷いと苦しみだけが際限なく広がっていくばかりです。
たかがこの程度、この国が経験した二次大戦の大傷とかに比べると、全然大したことないはずなのに。私には二度と立ち上がる気力がなくなるほどのことなのです。
どうやっても勝てる気も、ビジョンも浮かびません。ただ、書くのをやめないということだけしかできません。
私は一体何を書いてるのでしょうか。何がしたいのか、そんなもの答えられたことはほとんどありません。
勉強しなきゃやばい、やる。しなきゃやばいことができない、死ぬ。でも死ぬなと言われた、死なない。
それだけ。
しかし生きたいという思い
なんか壁にぶつかって機械的に方向を変える、できそこないの装置みたいですが、ひとつだけはっきりしていることがあります。それは死なないということです。
ただそれだけです。理由は分からないけど、自分から死ぬことだけは私は私に許しません。しかし私は弱いので、すぐ心が傷つきます。だから私を死に誘う何かを感じれば、全力で逃げます。周囲にどれだけの迷惑を掛けようと、たとえそれで何人死のうとそこから遠ざかるためにあらゆる手段を尽くします。死んだ人はいないと思いますが。
余談ですが、こういう私が、『お前は俺か!?』というキャラクターにジョジョ七部のアクセル・ROがいますね。あの逃げのびておいて、自分の罪を人のせいにしたいというくずっぷりがそっくりです。
私はブラック企業というところに勤めたことはありませんが、体が悲鳴を上げたときは、即座に逃げ出してきました。おかげで今まで死なずに済みました。それによって成長することや自分の歪みを正すという目的を全く失った、ずるずるのくずにはなりましたが、とりあえず生きています。
多分、生きることを自分に許したからでしょう。社会も何も関係なく、好き勝手を言いつづけ、とりあえず書くから書いて、言いたいから愚痴を吐き捨て、それを糧にまた生きて。どこかで自分に許したから、こんな考えでも生にしがみつけるのでしょう。
毒を吐いて周囲を幻滅させながら、決して死ぬつもりはない。まるで仮面ライダーディケイドに出てきたアポロガイストです。『全人類にとってとても迷惑な存在』、でしたっけ。このNoteに創作論をお書きになっている、若林稔弥さんの『幸せカナコの殺し屋生活』の主人公が三秒で殺しにくる存在ではないでしょうか。
もっとも、ああいう正しい怒りを持った人がどこかにいるであろうことを見越している私は、まず人との接触を避けますけれどね。いくらあの主人公でも、存在を知らない奴は殺せませんから。後、拾ったお金も交番に届けるし、余裕があればゴミは拾うし、電車で席を譲ることもあるし、セクハラなんぞ怖すぎてできもしないし、そもそも会話しないから女性を腹立たせることもないでしょう。
それでも恨みを買って殺されることもあるかもしれませんが、それはそれ、ということで。いや、でもそれはそれといったけど、泣き叫んで相当情けない死に方をするでしょうね。いっそカナコみたいな人に瞬間に殺された方が幸せかもしれません。私程度を瞬殺することは、彼女のような腕利きの殺し屋には造作もないでしょう。むごい拷問も造作もないでしょうけど。
明るいこと?
ところで、そういう私からすれば、私よりはるかに若く、できのいい方々が苦しんでいる現状は不可解の一言に尽きます。
自己嫌悪にもがき、絡め取られてなにもできなくなったり、最悪の場合命を絶ったりしてしまう理由が分かりません。
分かりません、というのは残酷ですね。
だから、分かるつもりで考えてみます。自分殺しについては、私だってそこそこの自信がありますから。このかすが、死んでしまえと自分に対して思ったことは、数えてないけど百回は超えているはずです。
私が私を最も苦しめるとき、本気で危険だと思うときのことをふえんして考えてみるのです。
それはどういうときか。ずばり、自分を許すことができないときです。
前述までのぐだぐだっぷりをご覧になりましたか。私でもあきれるほどの、怠惰、不心得、迷惑千万、ドラマでもラノベでもこういう側面のあるキャラが出てきたら、総ひんしゅくの大炎上確定、大爆死。そんなことをよくもまあこれだけ並べられると感心します。
しかし、全て私が感じたことなんです。感じることは変えようがないのです。私は生きるために、その感覚を受け入れています。いわばカナコに殺されるような自分を受け入れているのです。
無理やり押し込めて、前向きなことばかり書くこともできるでしょう。十年前ならそうしていたでしょう。しかしそれでは、自分が破壊されていくばかりです。作り上げた自分と、感じることの間で磨り潰されて苦しむばかり。
ギャップが努力で埋められればよろしい。しかし私にはそこまでの根性も気力もない。だから開きが許せなくなり、やがて憎悪を募らせていきます。大言壮語についていけない自分自身に。そして自己嫌悪レベルマックス、とも言えるあの死への誘惑が湧きあがってくる。
ああ、なるほど。少しわかってきた気がします。
皆さんは恐らく、生きるハードルが高いのですね。
誰が見ても悪い奴、応援する気が起きない奴、誰からも嫌われるような人。そんな人になる、あるいはそんな人たちと共通する面を自分に認めてしまう。
そんなこと、絶対にあってはならないと考えているのでしょう。
それは、分かる話です。なぜって私もまた、その開きで自分を殺したくなったことは、一度や二度じゃありません。社会に出られず、恋愛もせず暇だった分、人より多いくらいかも知れない。
ただ、ただ、こんなくずやろうに一言だけ、言わせていただけるなら。
たとえそうなってでも、私は、自分を許せず苦しんでいる方々に死んでほしくありません。
理由は、特に思い付かない。けどただ、ただ、そう思うのです。
まあ、テロとか犯罪とかを拠り所に生きられると、ちょっと困るんですけどね。
それと、ならば俺が生きるため、お前に死んでもらうとか言われたら、私も死ぬ気で抵抗します。
だってテロや犯罪の犠牲者も、私も、生きていたいのですから。テロや犯罪、あるいは私を殺すことでで生きようとする人が、生きていたいのと同じくらいには。
ふむむ、私が言いたいのはひとつ。人に言いようもない自分のひでえ面でも見つめてみたら、許してみたら、何かする気が起きるかもしれないということだけです。
まあ、言えたことじゃないかもしれませんけど。
でも、こんな私でもそう言いたいくらいに、あっちこっちに辛そうな人の存在を感じるんです。死にたくなるほどじゃないけど、哀しくなるんです、私以外の辛そうな人を見ると。
なんで、変な奴が存在を許されなくなったんでしょうね。
売れるのが、変な奴を痛めつけてすっきりする作品ばかりで嫌になりますよ、本当に。ああいうのは、やればやるほど、この世もみんなも生きにくくなるだけだと思うんですけどね。
社会が綺麗になることが全てなんで、仕方ないんでしょうかね。じゅうぶん綺麗だと思うんですが、意外とみんな、不安なんでしょうか。