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あしたもし、生きていたらこまるから。

あしたが見えないときもそうでないときも
生きていることについては、

『あしたもし、生きていたら‥』

そう考えて生きていけばいいような気がしてきた


あしたもし死んだら
それはもうそこまでだからそれでいいし
あしたもし生きていたら
今日の積み重ねは
『雨垂れ石を穿つ』『蟻の一穴』
必ずいつかどこかで
あしたに生きてくる 今より進んだその先に届く
だからもしあした生きていたと考えて
今日をしっかり生きて
大きなことから小さなことまで
積み重ねておかないと


もし
あしたもし死んでたらどうなる?
そしたら
今日までのことがあした途切れることになる
それは無駄なこと?
 
ううん、最後まで自分らしい人生を築き歩めたことは
無駄とは言えないはず

生きるってのは、生きているから生きているだけだと思うし、
人生に意味なんて本質的にはないのだろうけど
そこに価値を与えることはできるから
そしてその価値こそが人生の意味になると思える
 
積み上げているものの最後を見ることなく死ぬことが
無駄だと怖れ今日を積み重ねられないのなら
もうずっと前からそういう生き方をしてきてやしないか?
もう自分らしく生きられてなくはないか?
 
命ってのはだれかによって偶然はじめられて
何も決まってないときに必然と終わっていくようなものだと思うから
今日で終わることをおそれれば、終わっていく時間をおそれれば
もうなにもできやしない

いっときの無駄というぜいたくをむさぼること、それをしあわせと思うなら
それを否定することもないけれど 僕にとってはそれは
今日一日を、自分らしさを積み上げる時間を無駄にしたまま
あした死ぬだけになるように思える なんかちがう
 
あした生きていたらどうする?
それに比べたら
あした死ぬことは考える必要がない
のかなと
 
死ぬことはとめられない
だけど
今日までのことをたしかに積み上げたのなら
きっと生き方として正しい
 
生きることを終える、そのときまでに
どう生きていたか
そこに人生が生み出すさいごの価値があるように
思えてならない
日々積み重ねた人生の価値が自分を集大成するような
 
死後の自分の価値なんて人が見てたのしむだけの娯楽
そんな価値なんていらない、と思えるとき、それって
どこか人の目を気にしているというか
人のために生きてるマインドでしか自分を捉えられないから
そう思えるだけな気がする
それってちゃんと自分を生きてないんじゃないかな
って思えてしまう
 
きれいごとかもしれない
だけどやっぱりさいごの最後まで
あしたも生きることを考えて生きる姿は
うつくしいんじゃないかな
って思うから やめたくはない

あしたもし生きてたら
今日を積み上げておかないとあした生きることに差しさわる

あしたもし生きていたらと考えて
食事や運動、勉強や読書なんかの習慣から
歯磨き、花の水やり、洗濯、掃除、片付けの日常や
家族のこと、老後のこと、自分のことみたいな精神的なこと
自分の十年後のこと、一年後のこと、来月来週
そしてあしたのこと
 
今という細切れスライドを積み重ねて
過去から未来へ手を伸ばすため
あしたのために、考えておかないと

あしたの準備はあしたすることの準備だけじゃなくて
あしたもし生きていたら困ることがないように備えることも
言うんじゃないかな
って

絶望の大予言があろうとも、余命を宣告されてしまおうとも、そう
あした生きていたら困るから、あした生きていても困らないように
今日も自分らしさをしっかり積み上げて
あしたも自分らしくいられる準備をしておかないと。

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