自分が何でも決定する時代 ~危うい時代の到来~
人の数だけ正義があると言われる時代
自粛要請に従わないパチンコ屋に並ぶ客たちに、大声で怒鳴り付ける方たち。
゙俺たちは絶対に正しい"という、確信から出てくる行動なのであろうか。
真面目な方たちほど、自らの正義に酔いやすい。
「敵」設定が完了すればあとは攻撃あるのみ。目の前にいるのは敵なのであって、具体的に生きた人間、同じ人間なのだという感覚はいつのまにやらどこへやら。
その場にたまたま居合わせたもの同士であっても、一種の繋がりみたいなものをそこで感じたなら、そこで生じる妙な温もりや連帯感と共に、益々その攻撃に拍車がかかる。
もはや、日頃の鬱憤(うっぷん)晴らし状態である。でもそうなっていることに、彼ら自体は基本気づかない。絶対正義...。
絶対正義...人生60数年生きてきて、そんなものに出会ったことは一度もない。
一体、彼らの主張する正義とは何なのであろうか。
仮にそんなものがあったとしても、わざわざそんなことを大上段に振りかざして主張することは、やはり多くの場合違和感を感じざるを得ないし、やり過ぎなのだと素直に思う。そう感じる。
だが、もはや笑い事では済まされない。済まされなくなってきている。
これに似た現象は、日々、日本のあちこちで、わたしたちの身近な所にでも既に日常的に起こり始めている。油断大敵。
テレビに写し出されるその一連の行動が、まるでドラマのワンシーンのように進行していき、観ている方たちが、゙へー、こんな人たちもいるんだ~!ちょっと怖い時代だなぁ..."なんて感覚で眺めて終われるならまだいい。なんとか許される。警戒心を抱きつつも受け流していけば済むことなのだから。
同調される方たちの数がそれほど多くない限りは、なんとかなりそうではある。
だが、これが何かのきっかけで導火線に火がついたみたいな状態に一度(ひとたび)移行すると...。
想像するだけでも、さらに警戒心を煽られ、事前に余計なことだと判断したら、そういったことには一切関わらない集団へと益々多くの方々が追いやられていってしまう。
閉塞感をこれ以上もたらしてはいけない。社会が本当に壊死していってしまう。
羊だとかメダカだとか罵(ののし)られ、その時々の怒り狂った方たちの気持ち次第で、その名前はつぎつぎと書き換えられていく。そのような対象が顧(かえり)みられることなどはない。
SNSの影響力が全く軽視できなくなってきている現状、そういった想いが日に日に強くなってきている。素直に感じている。
不安やいらだちから無意識に近い恐怖心に煽(あお)られ、突発的に相手に怒りをぶつける(言葉や行動)その前に、相手の意図やお気持ちを少しでもお考えになってみませんか。そう素直に感じています。実感です。
地に花 人にこころ
自分が何でも決定する時代
危うい時代
ではでは。
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