見出し画像

普通ってなんだろう



ごめんね

Xで「普通」の辞書的な定義だとか、「要するに」でまとめて教えてほしいとのユーザーがいたので、少し前に話したことを書き下してみることにする。熱が出ていたので、あまり覚えていないが、Xではなかなか恥ずかしい発言をしていたようだ。ごめんね。

「普通」という概念は、統計学的な視点からも文化的な視点からも捉えることができる。しかし、「普通」は普遍的なものではなく、社会や時代によって変化するものである。少しだけ2025年2月1日にある法人に呼ばれた場で話した「へんな人」というテーマで「普通」について話してみよう。この項目では統計上の「普通」と文化的な「普通」について、日本と他国の事例を交えて考察する。

「普通」というものはあるが、「普遍」というものではないことは既にX上で述べている通りである。また、同時に「普通でない」ということが即ち劣っているとか、悪いということでもないことは留意するべき点であろう。

統計学的な「普通」

統計的に「普通」を考える際、知能検査や社会調査のデータを利用することができる。たとえば、知能検査(WISC-V、WAIS-IVなど)では、FIQ、FSIQ(全検査IQ)が90-109の範囲にある人が全体の50%を占めるため、この範囲を「普通」と見なすことができる(WISC-V, WAIS-IV)。これらが「平均」ならば全体の50%が「きわめて普通」といえるだろう。そこから徐々に上にも下にもパーセンテージが減っていくので「平均から外れた値」である、いわゆる外れ値になっていく。外れ値は「普通」とはいいがたいだろう。

留意すべきなのは、どこから外れ値であるかという点は同定されていないことであり、昨今の境界知能という概念も医学的用語ではなく、心理学の用語であることには注意が必要だ。

同様に、日本における家庭の状況を見ても、18歳以下の児童がいる世帯は全世帯の18%しかなく、すでに平均値から外れた存在といえる(国民生活基礎調査令和5年)。さらに、ひとり親でかつ生活保護を受給している世帯は全体の0.6%に過ぎず、極めて稀な存在となる(令和6年8月被保護調査)。このように、「普通」は統計的に測定できる。政策ベースでみると「普通ではない(生活が困難である)から支援の手が手厚く入れられている」ともいえる。

ただし、普遍的ではないというのは、これらの数字はあくまで「日本での話」であるからである。あくまで「普通」ではないというものは、その場の大多数からの外れ値でしかなく、普遍的であるとは限らないのだ。地域や時代によってその基準は変わる。

文化的な「普通」

文化的な「普通」は、統計的な「普通」とは異なり、社会の価値観や習慣に深く結びついている。たとえば、日本では長時間労働が「普通」とされる傾向があったが、北欧諸国では労働時間の短縮やワークライフバランスが「普通」とされ。また、家族構成についても、日本では単身者世帯が一番多く、かつ家族世帯に関しても核家族が一般的だが、インドや中東では拡大家族の形態が「普通」とされている。

教育の面でも「普通」は国によって異なる。たとえば、韓国では大学進学率が80%以上と極めて高く、大学進学が「普通」とされるが、ドイツでは職業訓練制度(デュアルシステム)が確立されており、高校卒業後に職業訓練を受けることが「普通」とされる。

このように、文化的な「普通」は社会の制度や価値観によって大きく左右される。アメリカではK-12といい、18歳までが義務教育なのが「普通」だ。

日本国内においても、学校基礎調査からひも解けば東京都の高校卒業者に占める就職者は4.6%であり、次に京都府が低いが全国的には外れ値であり、これらも地域によっては20%を超える。つまり、日本国内でも地域によって「普通」=常識であるとか大多数であるとかは齟齬が生じるのだ。

ただし、東京の中での格差も別のnoteで書いた通りだ。

大学進学における男尊女卑文化

また、昨今話題の大学進学に関して筆を向けてみると、日本においては、伝統的な価値観の影響により、男女間で「普通」の定義が異なる場合がある。たとえば、男尊女卑の考え方が根強く残っているため、女子の4年生大学進学率は男子と比較して低くなる傾向(しかしながら、専門学校、短大といった軽学歴の高等教育を含むと一貫して女子の進学率が高い)がある。

特に地方では、「女性は国公立のみ」「家から通える範囲」といった価値観が依然として存在し、進学を阻む要因となっている。一方で、男子に対しては進学やキャリア形成が当然とされることが多く、社会的なプレッシャーも異なる。このような文化的背景が、「普通」の形成に大きな影響を与えている。

大学生活でいえば、中退や在学中の妊娠は「外れ値」である。特に在学中の妊娠、出産は大きな課題であり、東京工業大学、早稲田大学、大阪大学、東北大学などは学生も利用できる保育室があるし、京都大学なんて学童保育まで設置している。こうした取り組みがもっと増えるといい。つまり「支援を要する学生」だ。

「普通」の相対性と支援の必要性

「普通」とは、その社会における多数派の傾向を示すものに過ぎず、必ずしも望ましい状態を意味するわけではない。また、再三になるが「普通でない」ことが必ずしも劣っているわけでもなく、多様性を生み出す要因となる。

政策的な観点から見ると、「普通でない」人々に対しては支援の手が差し伸べられるべきである。例えば、前述の日本のひとり親世帯や生活保護世帯に対する支援策がそうであるように、障害者に対する障害年金や障害者手帳など、社会が支援の必要性を認識し、適切な対応を取ることで、「普通でない」人々も安心して生活できる環境が整う。

結論

「普通」という概念は、統計的にも文化的にも変動しうるものであり、決して普遍的なものではない。ある社会では「普通」とされることが、別の社会では「普通でない」こともあり得る。そのため、「普通」の定義に固執せず、多様性を認め、適切な支援を行うことが、より包括的な社会の実現につながるといえる。

しかし、現代社会は急速に変化し、価値観や生活様式の多様化が進むにつれて、社会内部の分断も進んでいる。所得格差、教育機会の不均衡、ジェンダー格差など、さまざまな要因が社会の統合を困難にしている。

この分断を前提とした上で、山脇直司先生の言葉を借りれば公共哲学の視点から滅私奉公ではなく、自らも大切にし、より良き公正な社会を目指す議論が必要となる。すなわち、単なる「普通」の押し付けではなく、異なる価値観を持つ人々が共存し、協力できる社会を構築するための倫理や制度のあり方を考えなければならない。

と、朝の就業前に書いてみたが・・・仕事しろ自分。 そして、この文字数2795文字。ね、Xの140文字では語れないのよ。

いいなと思ったら応援しよう!

真紀
現場から現代社会を思考する/某国立大学の非常勤講師/専門は社会福祉学だが、最近は社会学に傾倒中。