見出し画像

人の苦しさに気が付く人と、気が付かない人

人の苦しさに気が付く人と、気が付かない人。
これについて、最近よく考える。

 私自身、苦しさに気づかれることが少なかった。もしかすると、それは私が何かを隠すのが上手だったからかもしれないし、あるいは、私がいる場において「強者」と見なされることが多かったからかもしれない。

 場の力学というものがある。人間の集団には必ず暗黙のヒエラルキーが生まれ、そこには権力勾配がある。私がその場で「強者」として機能してしまうと、私の苦しさには誰も気づかなくなる。気づかないというより、気づく必要がないと見なされるのかもしれない。

 だが、強者とされる人間も、別の場に行けば弱者になることがある。強者であることは絶対ではない。一つの場においては力を持つ者でも、場を離れればただの一人の人間に過ぎない。

 例えば、私は弁護士と仕事をすることがある。仕事中は明らかに依頼者と代理人という関係があり、そこには権力勾配がある。依頼者は自分の案件を弁護士に託し、弁護士はその責任を背負う。しかし、弁護士もまた仕事を離れればただの人だ。彼らも親であり、人であり、男であり、女である。肩書きを外せば、誰もが等しく悩み、迷い、時には苦しむ存在である。

 だからこそ、専門職の人々が立場を離れて弱みを見せられる場が重要だと感じる。彼らが肩書きや責任から解放され、ありのままの自分でいられる場所があれば、精神的な負担も軽減されるだろう。そのような場を提供することは、社会全体の健全性にもつながるのではないか。

 世界は見える人には見えるが、見えない人には決して見えない分断を抱えている。強者とされる人も、その立場にいるからこそ見えない現実がある。一方で、弱者として扱われる人々は、強者が持つ見えない苦しさに気づかないことも多い。視点が異なるだけで、同じ空間にいても全く違う世界を生きているのだ。この分断がある限り、相互理解は簡単ではない。

 この「気づき」の力を考える際に、ソーシャルワークの専門性が示唆する点は重要である。ソーシャルワーカーは、単なる観察力だけでなく、経験と専門的知識、さらにはクライアントの立場に立った想像力を駆使することで、個人が置かれた状況を正しく理解し、適切な支援を行う。彼らの実践には「エンパワメント」や「ストレングス視点」といった理論があり、個人の強みを引き出しながら、潜在的な困難を共に乗り越えることを目的としている。

 しかし、気が付くことができても、それを行動に移せる人はごく少数だ。人の苦しみに気づいても、具体的に手を差し伸べるには勇気と責任が伴う。ときには、適切な距離感を保ちながら支えることも求められる。支援する側が疲弊しないように、専門職としてのスキルやネットワークを活かすことが重要になる。

 また、そもそも気が付くためには、一定の余裕が必要だ。自分自身が余裕を持てない状況では、他者の苦しさに意識を向けることは難しい。余裕とは時間的なものだけでなく、精神的な安定や経済的な安心感も含まれる。日々の生活に追われ、自分のことで精一杯の人にとって、他者の苦しさに気づくことは容易ではない。

 さらに、人の苦しさに気づけるかどうかは、相手を大切な存在として認識するかどうかにも関わる。関心のない人や、どうでもいいと思っている人の痛みには気づきにくい。反対に、大切に思う人には、些細な変化にも気づくものだ。この「気づき」と「行動」を生むためには、人と人との関係性の質が大きく影響するのだろう。

 私自身も、これからは自分が「強者」として見なされる場であっても、そこにいる人たちの目に見えない苦しさに気づけるようになりたい。そして、それを理解し、適切に支援できるような関わり方を模索していきたい。

『勝者などいない。人類全てが弱者なんだ』
by.ヒイロ・ユイ(ガンダムW)

いいなと思ったら応援しよう!

真紀
現場から現代社会を思考する/某国立大学の非常勤講師/専門は社会福祉学だが、最近は社会学に傾倒中。