サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ㉗別れの予感

  赤坂から横浜港までの約1時間、恭平は助手席に座った緋呂子と職場の関係を忘れて打ち解けた。以前自分の暗い出自を吐き出した恭平は上司緋呂子の予想外の破天荒な身の上が面白く、呉の漁師を父に持ち貧困と戦いながら今日の地位まで上り詰めた半生に驚きと尊敬も交えて聞き入った。

「 お父さんはかなり荒っぽい人だけど、専務はそれに輪をかけた負けず嫌いだったんですね」

「 そうしないと、あのろくでなしだらけの港町で人生が終わってしまうから必死よ。毎日酔っぱらって暴れる父親がうざくて、夜は近所の居酒屋でバイトした後にそこで勉強させてもらったわ。それなのに高3になったら父が勝手に私を知り合いの息子の嫁にすると言い出して、慌てて東京の大学に進学して呉から逃げ出したの 」

「 私立の名門ですよね。お金はどうやって工面されたのですか 」

「 返さなくてもいい奨学金を3つはしごして凌いだわ。成績が悪いと打ち切られるから、アルバイトと勉強だけしか出来なかった。でもこの会社に入って、徹底的にのし上がって高給取りになってやると誓ったの。やっと夢は叶って欲しいものは手にしたけど、こんなおばあさんになってしまって…若い時にもっと楽しんでおけば良かったと今では後悔してる 」

 車窓から山下公園をはさんで海が見える。観光客がそぞろ歩き、夕方近くになっても街は活気にあふれている。恭平は国際客船ターミナル方面へ右折すると、埋立地を整然と走る道路を直進した。

「 おばあさんなんて、専務はまだ充分若くて綺麗です 」

「 あなたまでお世辞はやめて 」

「 嘘じゃない。本当です 」

強い口調に緋呂子はたじろいで下を向いた。緋呂子は人生経験から人を使う事も愛する事も学んでいる。だから、見た目よりも内側が輝いて見える。一方で若さ特有の未熟さと愚かさは鮮度が落ちるに従い油断すれば取れない垢になって人生にこびりつく。

 この俺が、そうだ。恭平は自嘲気味に笑おうとしたが代わりに激しい胸の疼痛に顔をしかめた。太陽みたいに眩しい青葉の笑顔。傷が痛む。それで青葉が抱えた痛みが薄れるなら、生涯俺はこの傷を抱えて生きても構わない。俺に出来る償いなんて、たかがその程度なのだから。

 緋呂子は恭平の様子に気づいて表情を伺った。真っすぐ前を見つめる横顔は端正や精悍などという月並みな表現では事足りない。その美しさは辛い生き様に耐えることにより益々凡庸や常識から乖離していく。言葉に出来ない悲しさと後悔が作り上げた芸術。神はなんと残酷な事をするのか。緋呂子は人知れず息を吐いた。

「 喉、乾きませんか。ヨットハーバーの近くに紅茶の有名なカフェがあるんです 」

「 うれしい。アイスのダージリンが飲みたい気分なの 」

「 テラス席なら煙草も大丈夫です。潮風がお嫌いなら屋内の窓際がいいですがどうしましょう」

「 任せるわ。でも、その仕事場みたいな口の利き方は止めて頂戴 」

 恭平は笑った。緋呂子のさっぱりした物の言い方は心が和む。母のような優しい姉のような仕草が、恭平の傷んだ心の褥瘡をふわりと癒してくれていた。だが緋呂子は母親ではない。上司だ。オフィスで見せる厳しい顔こそが真の姿。俺の役目は、そのまなざしを支える事。勘違いをしてはいけない。

ハンドルを回して恭平は彼方を見た。海は、まだ遠い。

 

私はクルーザーの窓辺で西に傾いていく夕陽を見ている。

 進藤課長補佐の運転する船は大きな港に向かっている。私はする事もなくて外を見ている。なんだかなあ、寂しい… このままお別れして家に帰るのも何か物足りない。急に告白されてまだ返事もしていないまま2回のキスを受け入れて、私の心はイエスとノーの間で浮いている。恭平さんを忘れて進藤課長補佐と恋人になるなんて想像できない。でも、課長補佐の存在はすごく大きい。意地悪で乱暴な人じゃなくて、飾り気のない胸の内をみせてくれる誠実さがある。ああ、なんか自分がすごくもどかしい。二股かけてるみたいで、罪悪感が半端ない…

船が止まった。課長補佐は碇を下ろすと、私に微笑みかけた。

 「 帰ろうか 」

 「 そうですね 」

良い言葉が見つからずに、私は曖昧な笑顔をつくる。

「 降りる前に、煙草を1本吸わせてくれ 」

課長補佐はポケットからしわくちゃになったマルボーロを出すと火をつけた。潮に紛れて濃い煙草の香りが辺りに広がると、彼はやっとくつろいだ表情になった。

「 私の、どこが気に入られたんですか 」

無意識に口から出た言葉に彼は穏やかな声で応える。

「 さあ、なんでだろうな。気づいたら、視線の先にいつもお前がいた 」

同じ言葉を私は以前に聞いたことがある。恭平さんに初めて抱かれた夜に、怖くて震えながら尋ねた私の髪を撫でた手の感触と一緒に記憶しているあの言葉。

「 なんでだろうね。いつも青葉の方ばかり見てるから、あれ、もしかして好きなのかなって 」

 この二人はもしかしてよく似ているのかもしれない。だから、私は今揺れているんだ。少しだけ納得したら、幾分か気持ちが軽くなる。半分になった煙草の先が気になるけど、それをどう表現したらいいかまだ言葉が見つからないまま夕陽を見つめるだけだった。


 恭平は緋呂子と連れ立って岸壁ぞいに並ぶヨット越しに海を眺めていた。遠い西陽は夕焼けに変わり、二人の影をコンクリートに刻み込む。まだ暑いが風は涼やかで、緋呂子の真っ白いワイドパンツの裾を揺らしている。オレンジ色に染まる緋呂子の顔に揺れる大きな銀のピアスが華やかで、恭平は地中海の港でフラメンコを踊るダンサーを思い起こした。

「 やっぱり海は落ち着くわ。子供の頃から毎日見てたから波の音を聞くとたまったストレスが抜けていくわね」

「 瀬戸内の海はここと違いますか 」

「 全然… 潮の流れが全く。狭くて流れが急だし結構深いの。お魚の身が締まって鯛なんか最高よ。レモンやミカンの畑が海沿いに植えてあって黄色い花畑がずっと広がってるみたいで綺麗なの 」

「 見てみたいな。旅行なんて、ほとんど行ったことがないんです 」

「 一度呉にいらっしゃい。私が案内してあげる 」

「 本当ですか 」

「 広島支社に視察に行く用を作ればいいわ。紅葉の季節に合わせてセッティングをして 」

「 わかりました 」

  紅葉… 母を連れて行けたらどんなに喜んだだろう。いや、もうそんな昔の夢は忘れよう。恭平はゆっくり息を吸って海の香りを吸った。

  それとほぼ同時に、恭平の視界に見覚えのある白いクルーザーが目に止まった。ボディに青い2本の線。先端部分にマーメイドのモニュメント。

 雄太のクルーザーだ。間違いない。以前何度か乗せてくれたことがある。

 操舵室のガラス窓の奥に灯りが揺れる。誰かいるんだ。細い影が見える。

 恭平はかすかだが確実な予感を既に感じていた。あの見えない空間で柔らかに伝わる思念がこれから目にする瞬間につながっている。

 あの中にいるのは、青葉と雄太だ。

 顔から表情が消えた。夏の瑞々しい宵は徐々に音を失くしていく。

「 恭平君、どうしたの… 」

 困惑する緋呂子の声を背に感じても尚恭平は吸い込まれるように白い甲板に歩み寄った。


  課長補佐がルームライトをオフにした。暗くなった室内に綺麗な夕陽が差し込む。

「 降りたら国道沿いに車を呼んでいるから、それでうちまで送るよ 」

 「 いつもすいません。今日は何から何までお世話になって 」

「 女はそんな事気にしなくていいよ。それより次にどんな我儘を言って俺を困らせるか考えとけって 」

 私は可笑しくて思わず笑った。こんな人も世の中にいるんだな。恭平さんとはまるで性格も生き方も違う。でも、2人なりにポリシーがあってブレないところが凄く強い。本当は親友だったのに。私のせいで… 

「 じゃあ次は私のアパートに来てください。私の得意料理を食べてほしいんです 」

「 本当? いいの?」

「 口に合わなかったらごめんなさい」

「 そんな… すげえ楽しみ。いつ行ったらいい?」

「 来週の土曜日のお昼から、課長補佐が時間あれば… 買い出しから一緒に行きたいんです 」

「 行くよ。絶対行く。今度は俺のバイクで行くからさ。後ろに乗せて買い物に連れてくよ 」

 課長補佐は子供みたいにはしゃいでる。後ろめたい気持ちはゼロじゃないけど、私なりの方法でお返ししないと申し訳ない。

 私の部屋にある恭平さんの私物… どうしよう。しばらくは持っておこうと思うけど、見ると悲しくなってしまう。

「 タラップ下したから来いよ。足元気をつけろよ 」

 課長補佐に呼ばれて私は甲板に出た。海風が吹き抜けてスカートの裾を揺らす。慌てて押さえながら先に降りた課長補佐に手を取られてステップを降りる。これから歩きながら次のデートの話をしないと…やっと色々話が弾むかもしれない。私はちょっとホッとして無事地面に足を下した。

 懐かしい視線を感じたのは私の足が地に着いた直後だった。

 髪の毛、耳、首筋、全身に優しい指の感覚が蘇る。忘れるわけがない。忘れられるはずがない。振り返った。長身に白い肌、黒い髪。大好きで愛しくて私の全てだった人がいる。でも一瞬で心がざわめいた。隣にいるのは、三条専務だ。

 私と恭平さんは黙って見つめ合った。ああそうか、今日一日はこの瞬間を迎えるためにあったんだ。神様がくれた、多分最後の時間なんだ。

 もう時間は巻き戻らない。冷たく乾いている彼の目が、これから起こる全てを物語っている。


 






 

 



  



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?