サドル狂騒曲60 処女の決心

 あの恐怖の夜から私は3日間病院で過ごした。退院した後は家で静養と言われたけど、特に悪いところもないから仕事に出させて欲しいと頼んで年末の最終営業日まで普通に働いて30日に仕事納めを迎えた。本当に、色々あった1年だった。今お客のいなくなった洗い場から一人で馬場を見下ろすと色々な出来事を思い出す。辛い事、悲しい事が多すぎて死にたくなった時は1度や2度じゃない。それでもこうして無事に生きているのはなぜだろう。

 進藤チーフと如月チーフがいたからだ。私の家族の代わりをしてくれた。私が犯されそうになったあの夜も二人が助けに来てくれた。もし一人だったら‥ 私はきっといま頃この世にいない。運命の神様が、北海道から遠く離れた東京に私を手繰り寄せたのはこの二人に出会うためなのか。だとしたらこれから起こる事は宿命として全て受け入れるべきなのか…


 クラブハウスから運びこまれた病院で目覚めた時、私は広い個室に寝かされていて目の前には三条会長が座っていた。会長の顔はいつもと別人みたいに穏やかだった。

「怖い思いをさせて悪かったわ。ごめんなさい」

会長は立ち上がって頭を深く下げた。
 
「 いえ、私はもう大丈夫です。進藤チーフと如月チーフが助けてくれましたから 」

「 二人から全部聞いたわ。今から全て話してあげる 」

 私は事の起こりを全て聞かされた。岸谷先輩が私を逆恨みしていた事、そして私を幣原卿に勝手に売った事、その結果チーフ達が私を助けるために大金を払って私のバージンを買い取った事。私はドラマのストーリーを聞かされているみたいに頷いたけど、全くピンとこない。そもそも、私の処女をお金で買う意味がどこにあるんだろう?

「 幣原様は岸谷から200万で買ったあなたの処女を500万で進藤と如月に転売した格好だけど… どうしても債権放棄はしないと言い張るの。進藤がもちかけた投資話だからってね。困ったお方よ 」
「 待って下さい。200とか500とかって一体… 」
「 狂った男どもがあなたの下半身にかけた金額よ 」
私は呆気にとられて会長を見た。この私に、合計700万… それだけあればオペレッタも牧場も買い戻せる。でも、おかしい。私なんかにどうしてそんな大金を払うの?
「 会長、そんな話はばかげています。私の、その、体の一部がそんな大金に変わる訳がありません 」
「 それもこれもあいつらが好んでつけた金額よ。知ったことではないわ。それよりもあなたはどうしたいの 」
会長の目が変わった。濃く描いたアイラインの縁に強い光が走る。
「 強姦未遂で岸谷と幣原様を告訴するならそうなさい。うちの倶楽部の顧問弁護士をつけるわ。岸谷はともかく幣原様は警察のひとつやふたつどうにでもあしらえるでしょうけど、こんな目にあわされて黙って引っ込む道理はないわ。ただ、それなら進藤が岸谷の顔をナイフで切り刻んだ件も立派な傷害罪だけれど 」
 胸がざわめいた。進藤チーフが岸谷先輩を… 恐ろしい… 私のせいでチーフに迷惑がかかるのは絶対に嫌。私はベッドを降りて会長に駆け寄った。
「 進藤チーフはどうなるんですか ? 」
「 岸谷は今のところ行方不明だけどそのうち見つけてやるわ。まあ進藤だって財閥の跡取り息子だから父親が手を回せば立件される事はないかもしれない。でも彼は親に助けてもらうくらいなら潔く逮捕される道を選ぶでしょうね 」
「 私、訴えません。幣原卿と約束した通り、1年後にもし認めてもらえなければ、卿にバージンを差し出します 」
「 … 本気で言ってるの? 」
本気だ。二人が払った500万円に負けない大人の女になればいいんだ。人の体に勝手に値段をつけるなんて本当は許したくない。でも、あの時はそうしないと私を助ける事は出来なかった。進藤チーフと如月チーフの気持ちを無駄には出来ない。
「 私、1年後に生まれ変わってみせます。絶対に負けません 」
会長は苦笑して私の肩を抱いた。近くで見るとお母さんっぽい雰囲気の柔らかさがある。
「 あなたは強いわね。安心したわ。後は進藤と如月に任せるしかないけど、必ず私からお詫びのギフトを送るから受け取って」
 私は笑って頷いた。そうよ、私には味方がたくさんいる。貴族か何か知らないけど、暴力ジジイなんかに大事なバージン渡してたまるもんか。
 「 この1年は恋愛はお預けだけど、めでたく処女を取り返したら進藤か如月のどちらに初体験の相手をさせるかゆっくり考えなさい 」
「 え、どういう意味ですか ?」
「 どうのこうも、あなたの処女は幣原様が債権放棄すれば当然あの二人が所有するのよ。命令されたら黙って足を開かないといけないでしょ 」

 そ、そそそそそんな、それって、どちらかのチーフとアレしちゃうって意味? どっちか選ぶとか無理無理無理無理!恥ずかしすぎる!


「 でも、あのお二人は… 会長はご存じないかもしれませんが… 」
「 ゲイのカップルでしょ。わかってるわよ。進藤が入社の面接で堂々と公言していたもの。知っているのは部長級以上の幹部だけだけど。どうなる事やら… 嫌ならダメ元で無償返還請求でもしてみなさい 」

 会長は最後意味深な笑いを残して部屋を出て行った。残された私はパニック状態でベッドにへたり込んだ。

 1年後に、進藤チーフか如月チーフのどちらかに抱かれる… どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。

 恥ずかしい、怖い、でもちょっと胸がときめく不思議な気持ち。どちらか選ぶなんてとても出来ない、だって初恋の人は如月チーフだけど、進藤チーフだって私にとって大切な存在だ。ひょっとして二人同時にとかどうかしら… でもそれってどうやったらデキるの?


 
「 青葉、何一人で笑ってるの? 」
 いきなり後ろから声がして振り返ると如月チーフがストールを持って立っている。ヤバっ、本物いきなり登場は生々しい。思わすリアルに想像しちゃった。
「 ちょっと、一人になりたくて… 色々あったから気持ちの整理を最後につけてから今年を終わりたいと思ったんですけど… 変ですか ?」
心の中を見透かされた気がしてリアクションがめちゃ挙動不審。チーフは持っていたストールを私の体に巻いた。あったかい!これ多分カシミヤだ。
「 あまり暗い所に一人で行ったら駄目だよ。しばらくは俺かユウがついていくから連絡して 」
「 平気ですよ。子供扱いしないでください 」
「 子供じゃなくても、女の子だから同じだよ 」
  私はチーフの胸に顔を埋めた。厚手のジャンバーの上からわかる逞しい筋肉。ペンハリガンの匂いが絡んだ黒髪が、冷たい空気の中で揺れている。
「 今日からしばらくはユウのマンションで過ごすけど準備は出来てる? 」
 「 はい、もうアパートの玄関においてあります 」
 私は進藤チーフ、如月チーフと3人で年を越すことにした。3人で暮らす毎日。緊張よりも楽しさの方が強い。だって朝起きても一人じゃないもの。どこへ行くのもご飯も3人で一緒。うれしいな。怒られたって喧嘩したって、しばらくしたら普通に話せる。全く違う性格の二人だけど、同じ位私を想ってくれている。上を向くと目が合った。なんて優しい目なんだろう。ハンサムとかイケメンとか軽い言葉では表せない人間離れした美しさ。天の神様が背中に降臨してるみたいでいつも見とれてしまう。
「 俺の荷物も車に積んであるからこのまま青葉をアパートに連れていって直接ユウのマンションへ行こう。あいつは帰って待ってるみたいだよ 」
 如月チーフに肩を包まれて私は歩き出した。厩舎ぞいの細い通路は薄い灯りに照らされて、坂を下れば華やかに光る本館へ続いている。私にとって新しい夜の始まりを告げてくれる。
 振り返ると私たちが立っていた場所は暗い闇の奥にかき消されて見えない。多分、私はおじいちゃんが死んでからあの闇にずっと一人で立っていたんだ。でも今は違う。1年後にあの凄まじい大金に見合う大人になれるかわからないけど、2人がいれば、きっと大丈夫。そうだよね、父さん、おじいちゃん…

 チーフの手が軽く私の肩を引き寄せた。私はまた前を向いて光の方へ歩き出す。もう、後ろは振り返らない。

 神様、来年の今日も、どうかこうしていられますように。



 雄太のマンションのリビングはいつもより念入りに掃除され、室内は清浄な冷えた空気が満ち溢れていた。だがその真ん中で怒りに満ちた顔で仁王立ちする雄太の周りには激しい怒りのオーラが充満し、衝撃で何もかも粉々に砕きそうな緊張感がそこだけ張り詰めていた。

「 ふざけるな! 俺に無断でそんな事をしたらどうなるかわかってるだろ!すぐに親父に言ってやめさせろ!今すぐだ! いいな!」

切った携帯電話を雄太は力まかせに床に投げつけた。ローテーブルに整然と並んだディナー用のカトラリーの横をかすめた時にバカラのカットグラスが倒れ、乾いた音を立てて破片が床に散らばった。

 雄太は一点を見つめて黙っている。渦巻く怒りは徐々にほどけ、俯いた目に困惑だけが残った。それは誰にも見せたことのない、雄太の内面に封印された脆さを残酷に浮き彫りにする。雄太は煙草を取りだし火をつけて無理やりそれを煙と共に吐き出した。もうすぐ2人がやってくる。いつもの俺に戻らないと。3人で迎える初めての夜。特別な夜。だがそれを台無しにされた怒りがまた喉元にせりあがる。親父め、進藤家の沽券のためなら俺を捨て駒に使うのも厭わない。見てろ、俺を息子に持ったことを後悔させてやる。

 グラスの破片が星のように輝く。本当の名品はその姿を変えても尚も美しい。それに比べて俺は…

 雄太の目の中で気品と激しい激情がぶつかり合って火花をと散らしていた。



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