サドル狂騒曲79 それぞれの思惑

「 お前は一体何を考えているの?謹慎期間がやっと終わってこれから本格的に現場復帰するタイミングで退職するのは私に対する嫌がらせかしら 」

 会長室の椅子に腰かけた緋呂子は怒りの籠った眼差しを雄太に浴びせかける。雄太はその視線を跳ね返すように昂然と女会長を見下ろした。

「 別に文句言われる筋合いはありません。ちゃんと1か月前に退職申請を出してますんで何の落ち度もないはずです」
「 詭弁を聞いてるんじゃないのよ。散々やりたい放題しておいて温情をかけてやったにも関わらずその態度はふざけるにも程があるわ。とっとと馬場に戻って働きなさい 」
「 この国には職業選択の自由があるんじゃないのかよ。それともあんたは憲法より偉いのか。そっちがふざけてるだろ 」
「 お前を雇う倶楽部は他にないわよ。私の力を見くびらないで」
「 インストラクターはやめる。馬はもう充分だ 」
 緋呂子の顔が軽く動いた後、不敵な笑みが浮かんだ。
「 例の徳川家所縁のお嬢様から何か頼まれたの。視覚障害のゲストを内規に反して騎乗させた件は聞いているわ 」
「 俺がついていて怪我させる事はない 」
「 女嫌いのくせに随分と優しい言い分だこと。やっぱり家柄で相手を見る辺りは腐っても名家のはしくれね 」
 雄太の目に怒りの火が揺れた。挑発に乗らないように自ら言い聞かせても、緋呂子の煽りは一瞬で雄太の自尊心を沸騰させた。
「 人の個人情報に口突っ込むんじゃねえよ、ババア。美奈子は俺が守る。進藤の家が仕組んだ猿芝居をぶっ壊すためにはもうここにいられないんだよ 」
「 如月はどうするの? あなたたちの中を裂くほどあのお姫様は魅力的なのかしら 」
「 恭平は、北岡と結婚するそうだ 」
「 何ですって… 」
 緋呂子は煙草を消して立ち上がった。初めて見る動揺の表情に雄太は心の中で笑いを浮かべたが、同時に胸によぎった恭平の面影に閉じていた感情が呆気なく揺さぶられて足元さえぐらつく。

俺は、青葉と結婚する。

何とか平静を装ったが、心の中では濁流の嵐が渦巻いた。命よりも大事な恋人から告げられた別れの言葉は一瞬で全身を駆け巡ったが、動揺は突如として収まり代わりに静寂と平穏が雄太の意識を支配する。それは奇妙にも美しい感覚で雄太を包んだ。まさしくこの抱擁が恭平の愛なのだと受け止めた時、雄太は恭平と真の意味でひとつになれたと感じ取った。

神が俺に下した最後の審判に逆らう気はない。だが、体の一部が突然剝がれて行った痛みは、理屈では消すことは出来ない。

今まさに、雄太はその痛みと戦っていた。

「 それは困るわ 」
緋呂子の声はうろたえ混じりに聞こえる。
「 心配しなくても恭平は辞めやしないよ。それに北岡の代わりの女ならいつでも雇える。第一俺はいなくなるんだ、追い出す輩はいないだろ 」
「 そういう問題ではないの 」
雄太は怪訝な顔で緋呂子を見た。どうもいつもと違って様子がおかしい。

「 どうしたんだよ、あんたがそんなに慌てる理由があるのか 」
「 約束が果たせなくなる 」
「 約束 ?」
「 北岡が岸谷と幣原様に襲われた後、私はお詫びのギフトを渡すと約束したわ。それにはお前たちも関わっているのよ 」
 雄太の携帯電話が鳴った。画面を見た。進藤家の顧問弁護士だ。
「 俺だ。今取り込み中だが美奈子の事なら今からすぐ帰ると向こうに伝えてくれ 」
 これ以上話しても時間の無駄と判断した雄太は電話を切ってドアに向かった。緋呂子はまだ立ったまま険しい表情をしている。
「 明日退社願を書いて人事に提出する。もう相本部長に全て伝えたから面倒は聞き取りは勘弁だぜ 」
「 受諾はしないわ 」
「 知らねえよ。後は勝手にやってくれよ 」
ドアが閉まった後、緋呂子は目を伏せた。

「 この約束だけは、絶対に果たさないといけない… 」

顔を上げた緋呂子の黒い髪が揺れ、隙間からのぞく目は猛々しく光っていた。



「 北岡さん、明日のスケジュールが変更されたけど午後1番の初級コースのメイン大丈夫?」
帰り支度を済ませて事務所を出ようとした私に総務部長が声をかける。今すぐ出たい気持ちを押さえて、振り返って精いっぱいのスマイル。
「 はい、大丈夫です! 」
 総務部長のレスを待たずに私は事務所を飛び出す。タイミングを外したら、部長のダル絡みにドはまりするところだ。いつもならともかく、今日はどうしてもしなければいけない事がある。
 雄太さんの家に行って、本当の気持ちを聞く。そうしないと、私はこのままこの倶楽部にいられない。恭平さんのプロポーズを受ける事は出来ないし、後継ぎのためにGカップと結婚なんて、正直絶対に許せない。正門を出ると、暗くなりかけた坂道を私は走る。あの片桐様の家でプロポーズされた夜からモヤモヤした気分が抜けなかった。確かにあの言葉を聞いた瞬間は嬉しかったけど、その後はずっと喉に固い骨が刺さったような苦しさが取れなかった。職場では雄太さんとも恭平さんともすれ違いのシフトで、顔も見られないまま時間だけが過ぎる。雄太さんが倶楽部を辞める噂はまだ聞いていないけど、もし本当なら、恭平さんとの関係は本当に終わってしまう。それは私のせいだ。私さえいなければ、あの二人は幸せな恋人同士でいられた。

  雄太さんに会って言うんだ。自分の気持ちに嘘はつかないで下さい。本当に愛している人を選んでその人に寄り添って生きて下さい。

そして、私はもう二人のそばにはいられない。胸がキュッと痛む。でももう決めた。倶楽部を出てすぐの通りにあるバス停に着いた。駅に向かうバスが来るまであと数分。

 雄太さんに会ったら、私は幣原様のところへ行く。そして約束通り処女を捧げて… 倶楽部を辞めて北海道に戻ろう。北岡牧場もオペレッタも諦める。どこかで、自分一人で生きていける場所を探すんだ。それが一番いい。みんな元の鞘に収まるから誰も傷つかない。短い家族ごっこは終わった。

 でもどうして涙が出るんだろう。私は持っていた鞄を抱いて暗くなった通りをぼんやりと眺める。乱暴だけど思いやりのある雄太さん、優しくて細やかな恭平さん。お兄さんでもお父さんでもないのに可愛がってくれた。もうあんなに私を愛してくれる人は出てこない。でも一人になる寂しさより、二人の仲が離れていく方が辛い。自分の幸せより、二人の幸せをこんなに強く願うのはきっと私が本当に人を愛した証だ。自信を持ってそう思えるから、何も怖くない。
 バスが遠くに見えた。私はハンカチを出して涙を何度も拭う。
 
 涙なんて、早く枯れればいい。全部終わらせる間に泣き尽くせば、忘れて生きていけるかもしれない。

 強いライトに照らして止まったバスに、私は吸い込まれるように乗り込んだ。


 美奈子が乗った車が雄太のマンション前に着くと、エントランスではすでに雄太が到着を待っていた。運転手がドアを開けると美奈子は待ちかねたように雄太の首に手を回す。
「 会いたかった… 雄太さんてば、忙しいんだもの。弁護士さんに何度も電話するのは本当に面倒だったのよ 」
「 ごめん。色々手続きがあって時間が取れなかったんだ。上に上がろう 」
軽々と美奈子を抱き上げると雄太はガラス戸をくぐってホールへ向かった。雄太がプレゼントした白いフリルのドレスに身を包んだ美奈子は、花嫁衣裳を着た人形のように愛らしい。エレベーターのボタンを押すと、美奈子は唇をせがんできた。軽く合わせるつもりが、甘く舌を絡める美奈子の仕草に引き込まれ雄太も深く貪る。
「 ちゃんとシャワーを浴びて来たのよ。だから… 」
「 美奈子は積極的だな。女がそんな事言うなんて他の男が聞いたら驚くぞ」
「 雄太さんだから言うのよ。早くお部屋に入りたいわ 」
「 タバコ臭いけど、我慢してくれよ 」
「 雄太さんの匂いなら、何でも大丈夫よ 」
 笑う美奈子には幸せのオーラがあふれている。このままベッドに連れて行き抱きしめたら、喜んで体を開くに違いない。だが、まだ抱くわけにはいかない。雄太は複雑な気分でその横顔を盗み見る。何も知らずに胸に顔を摺り寄せる仕草が可愛くて、抱えた両手に力をこめると白いフリルがさざめいて揺れた。

 俺の企みを知れば、美奈子は怒るかもしれない。だがそうでも俺は引き返せない。

 扉が開き、広い廊下が現れた。目を開けて美奈子は雄太を見上げた。
「 今日は泊めて下さる?」
「 もちろん。ベッドはひとつしかないけどいい?」
返事の代わりに美奈子は雄太の首に顔を埋めた。
「 不思議よ。見えないのに何も怖くないわ 」

雄太は腕の中で揺れる小さな体がたちまち溶けていきそうな錯覚に捕らわれた。手繰り寄せて温もりを確かめながら、部屋のドアを思い切り開け放つと、雄太は宝を抱いた盗人のように身を翻してドアの奥へ消えた。
 

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